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Ask the pastor
聖書と福音のQ&A
信仰生活
心を開けばイエスを知れるなら、みんなの心を開いてしまえばいいんじゃないですか?
質問: 「主がリディアという女性の心を開いた」 と書いてありますが、だったら主は全世界の人の心を開いて福音を広めることはできないのですか? [使徒 16:14] 答え: それはそれぞれの人の心の状態に左右されます。 確かにそう思いますよね。 でも神様は、人々の心を無理矢理こじ開けて、欲しくもないものを強制的に与えるお方ではありません。いくら神様でも、人間の主権と自由意志を無視して、勝手に人の心をいじることはできません。 この箇所の理解で大切になるのは、リディアについて少し前に書かれている 「神を敬う女性であった」 という記述です。リディアは、パウロに会う前から、すでに神を敬っている女性であり、神について知りたいと願っていた女性であったということが大きな前提です。さらに、安息日に川沿いにある祈り場にまで行くほど忠実だったので、その敬虔さと忠実の結果として、川沿いでパウロに出会うことになるのです。 心を開くという原語は、「完全に開く」 とか 「理解力を与えた」 という意味で、すでに少しばかり知っていたことが、さらにもっと完全に理解できたということです
Katsumi Sunaga
5月29日読了時間: 3分


聖霊が福音宣教を禁じた?
質問:なんで聖霊はパウロたちがアジアやビティニアに福音を広めることを禁じたのですか? [使徒 16:6-7] 全世界に福音を伝えるのは神の御心だったのではないですか? 答え: パウロ以外にも福音を伝える使徒たちがいたからです。 このブログで前述「テオフィロ様って誰ですか?」したように 、使徒の働きはパウロが中心人物として書かれているので、福音を異邦人に伝えたのはパウロだけのような感覚に陥ることがあります。しかし実際は、十二使徒たちのほとんどがイスラエル以外の地域、国々に出て行って福音を伝えたという記録があります。 下の地図をご覧になると分かりますが、12使徒たちをはじめ、それに続く70人の弟子たち、さらには500人の復活の目撃者たち、それからペンテコステの日に加えられた 3,000人の弟子たちが、それぞれ福音を携えてさまざまな地域に遣わされたというのが現実です。特に12使徒たちによって、東はイラン、北はロシア、南はエジプト、さらに遠東インドまで福音が伝わったとされています。 このように神の視点から見ると、アジアやビテニア地方というアジア地方はすで
Katsumi Sunaga
5月29日読了時間: 3分
主はご自分を求める人に出会ってくれるものだと思っていましたが?
質問:サウロはキリストを求めるばかりか、逆に迫害している人物だったのに、なぜ神が明確に出会ってくれたのですか? [使徒 9:1-] そしてなぜ彼の人生が大きく作り変えられたのでしょうか? 答え: 神は人の心の奥底を読まれるお方です。 主は、ご自身を求める者に出会われるというのは確かです。ここで注目するのは、「主を求めるにもたくさんの方法と表現がある」 ということだと思います。 パウロは確かにクリスチャンを迫害していましたが、心の中では、本物の神を求め続けており、本物の神を熱心に追求するという心が、彼の 「迫害」 という方法で表現されたのだと思います。事実、ギリシャ語では、「強く追い求める」 という言葉と 「迫害」 は同じ言葉なのです。 そういう意味では、パウロは、クリスチャンを迫害していたものの、同時に 「主を求めている者」 でもあったのでしょう。神はパウロの心の中の 「本当の叫び」 に答えて、明確に出会ってくれたのだと思います。 彼の人生が大きく用いられたのは、彼が迫害のために使っていた激しい追求心をキリストに向けたからだと思います。激しい迫害
Katsumi Sunaga
5月29日読了時間: 3分
神はなぜアナニヤを用いたのですか?
質問:なぜ、イエスは自分でサウロの目を癒さず、アナニアを使ったのですか? [使徒 9:3-] わざわざアナニヤを説得したりせず、自分で癒してしまえばよかったのでは? 答え: 神はご自分が立てた原則に忠実なお方だからです。 神が直接パウロの目を癒さなかったことには、いくつかの理由があると思います。 ① 神は、人間に触れるために直接的に手を出すことはされない。 天地創造のときから、神は、人間に地上のすべての支配の権威と力を与えられたので、神が直接 人間に関わることはできません。そのため通常、神は人間を用いて働かれます。もしくは人間の姿をした天使たちが用いられることもありますが、それは人間の力をはるかに超えた事柄を実行するとか、人間に神からのメッセージを伝えるだけの伝言者のような役割です。神がイエスという姿の人間になられたのも、地上で変化をもたらすことができるのは人間だけだったからです。パウロの目をいやすときも、神はご自分の原則に従われ、アナニヤという人間を用いられたということです。 ② パウロが回心したことの証人となるため。 パウロはダマスコという
Katsumi Sunaga
5月29日読了時間: 3分
私たちの信仰を増してください!
質問:これに対するイエスの答えが例えなので分かりづらいです。 [ルカ 17:5-10] 「信仰があれば何でもできる」 というのではなく、「神に言われたこと」を疑わないで信じて実行するなら何でもできる。という事でしょうか? 答え: その通りです。 信仰とは、神のことばへの応答です。 このたとえで、イエスは信仰についていくつかの原則を教えておられるようです。 ① あなたがたはすでに十分な信仰を持っています。 「あなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、木を海に動かすこともできます」 というところから、信仰とは自分の訓練によって増やしたり、大きくしたり、伸びたりするようなものではない、また信仰は量や大きさなどで測るものではないと教えられています。 ② 信仰は、神のことばに対する 「忠誠心」 です。 ルカ17:9に 「あなたも、自分に命じられたことを行ったら、なすべきことをしただけですと言いなさい。」 とあるように、まことの信仰とは、神のことばに沿って行動する時に自然に力を発揮するものです。必要なのは信仰の量や大きさではなく、神のことばへの忠誠心・依存心
Katsumi Sunaga
4月23日読了時間: 3分
必死に、何度も、しつこく求める?
質問:神様は必死に何度も求めないと聞いてくれないのですか? [ルカ 11:5-13] ここのたとえに出てくる神様は、なかなか願いごとを聞いてくれず、必死にしつこく祈らないと叶えてくれないように思えますが・・・。 答え:父なる神はそうではなく、まったく正反対です。 ここでイエスが言われた例え話は、理解しづらい箇所としてあげられるたとえの一つです。 一見するとイエスは、「友人に対して普通に求めても聞いてくれないが、しつこく頼んだら聞いてくれる」 と教えているように見えます。しかし、ここは 「しつこさ」 について教えているのではなく、「誰に」 頼んでいるのかということを教えようとしているのです。 ここでイエスが言いたいのは、「あなたの友人でさえ都合が悪い真夜中であっても結局は願い事を聞いてくれるだろう。であるならば、あなたの父ならどれほど簡単にあなたの願いをかなえてくれると思う?」 と伝えているのです。 このような理解しづらい文節は、それが書かれている文脈全体を見る必要があると思います。事実、11章2節では、「このように祈りなさい。私たちの父よ・・・」
Katsumi Sunaga
4月17日読了時間: 2分
なぜ3人だけ?
質問:ヤイロの娘を癒す時に、なぜイエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人しか一緒に入ることを許されなかったんですか? [ルカ8:51] 癒しのためだったら3人だけでなく、弟子12人全員で入ったほうが、12人みんなの信仰が集まって強くなるだろうにって思いました。 答え:イエスは信仰を大切にしたから、あえて3人にしたようです。 確かに人々が大勢が集まれば、信仰も集まって力が増すだろうと思いますよね。しかし、信仰は必ずしも単に集まった人数に比例しているわけではありません。集まった人たちに 「信仰があれば」 たしかに信仰は増し加わるでしょうが、集まった人々が 「不信仰の人々」 ならば、かえって不信仰が増し加わってしまいます。 実際ここで集まった町の人々は、死んだ娘をよみがえらせようとしているイエスを 「冷ややかにあざ笑っていた」 と書かれています。そこには大勢がいたものの、不信仰が増し加わっていたのです。これはカペナウムという町で起こったことですが、実際にルカ10章では、イエスがこの町の不信仰を責めているのを見ることができます。 死人をよみがえらせるという地
Katsumi Sunaga
4月17日読了時間: 2分
信仰という選択?
質問:救われるためには信仰によって神を選ぶ必要がある。それは不公平では? 人間は生まれつき罪人なのに、救われるためには信仰が必要となる...。それは不公平ではないですか? 罪人となると選んで生まれたわけではないのに、罪人として生まれた。それなら、義人となると選ばなくても、生まれつき義人にしてしまえばいいのでは...? イエスがアダムより強いのなら、そうできるのではないですか? 答え:罪の原点を見ると、私たちの「選択」こそ鍵なのです。 「選んだわけでもない」ということばから、「罪人は生まれるだけで罪人なのに、義人になるためには選択しなければならないのか」という不公平感を感じておられるのです。それについて、その理由を一緒に、ひもといてみましょう。 おっしゃる通り、じつは、この不公平についての答えが福音が伝えているポイントです。無条件で罪人であるということは、別のことばで言えば、「罪人となる以外に選択肢がなかった」という意味です。自分で選んだわけでもないのに罪人・・・すなわち 「別の選択肢があれば、違う道を選んだだろうに・・・」ということでしょう。 神
Katsumi Sunaga
3月5日読了時間: 2分
「義」の正体とは?
質問:「義」って難しい 「義」という言葉は普段の生活では使うことがないと思います。また、オリジナルゴスペルの中で論理的に定義されていないようで、よく理解できません。 具体的にどういう意味なのでしょうか? 答え:「義人」とは「イエスの性質」 たしかにそうですよね。「義」という言葉は、日常生活ではなじみが薄く、どこか堅苦しく感じてしまうのも無理はありません。一緒にその本質をひも解いていきましょう。 聖書の中で、「義」ということばは、シンプルに「罪」ということばの反対(対照)として用いられています。 ですから、「義人」の反対は「罪人」となるわけです。 では、その中身は何なのか。 まず、「罪」とはすなわち「悪魔の性質」のことです。 アダムが(エデンの園で)実を食べたとき、単に「罪という概念」が入ったのではなく、いわば「悪魔が入ってきた」のです。ですから、聖書が「私たちは罪人である」というとき、それは「私たちは悪魔の性質を持つ人である」という、存在そのものの状態を指しています。 反対に、「義」とは、すなわち「イエスの性質・神の性質」のことです。..
Katsumi Sunaga
2月18日読了時間: 2分
無条件?条件付き?
質問:「キリストを信じるなら」という条件 オリジナルゴスペルでは「無条件」という言葉がよく出てきますが、「キリストを信じる」というのは、救いのための「条件」なのではないでしょうか。 また、そこには自分の「選択」も含まれているように感じます。 答え:差し出された恵みを、信仰で受け取る 聖書を読み進める中で直面する、非常に鋭く、かつ大切なポイントですね。 一緒にひも解いていきましょう。 結論からお伝えすると、はい。確かにその通りです。 皆さんに正しく理解しておいてもらいたいのですが、「救い」は無条件ではありません。 私たちの教会でも、神の「無条件の愛」は強調しますが、「無条件の救い」とは言わないように気をつけています。 なぜなら、神はご自分を信じない人でさえ無条件に愛されますが、信じようとしない人を無理やり救うことはできないからです。 かつてアダムが、神のことばを信じないという「不信仰」によって神との関係を切り離してしまいました。 ですから、その関係を戻すためにも「神を信じる信仰」が条件となります。 十字架の福音は、神の側から一方的に、無条件の恵
Katsumi Sunaga
2月18日読了時間: 2分
義人にする力と私たちの選択
質問:キリストの力が勝っているなら、信じなくても自動的に救われるのでは? アダムによって全ての人が罪人になる力よりも、キリストの「義人にする力」の方がはるかに勝っているはずです。 それならば、キリストを知らなくても、信じなくても、すべての人が自動的に救われるのではないでしょうか? 答え:「力の強さ」ではなく「誰を受け入れるか」という対話 神様の力の偉大さに目を留めた、非常に鋭い視点ですね。 一緒にひも解いていきましょう。 この問いへの答えは、救いが単なる「力の強さの勝負」ではないというところにあります。 実は、イエス様が十字架にかかる前から、いえ、天地創造の初めから、神様は常に悪魔に勝っておられます。義の力は、いつだって罪の力よりもはるかに優れているのです。 力の大小は問題ではありません。 本当の問題は、私たち人間が「悪を好む存在」になってしまったこと、そして「あえて神様から離れる道を選んでしまう存在」になったことにあります。 たとえ神様の義の力がどれほど強くても、一人ひとりがその力を自ら選び、受け入れ、自分のものとしなければ、その力はその人の人
Katsumi Sunaga
2月18日読了時間: 2分
