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Ask the pastor
聖書と福音のQ&A
オリジナルゴスペル
義と約束と忍耐の関係性を教えてください。
質問:約束のものを得るのにはやはり忍耐になってしまうのでしょうか? 神の義というものは、神から約束されるものだけに限定されており、人生にそのまま反映されるものではないということでしょうか? また、信仰による神の義と希望に基づいた私たちの忍耐の関係性について教えてください。 答え: 「世界の相続人となるという約束が、アブラハムにに与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によったからです。」 [ローマ4:13] 「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」 [ヘブル 10:36] 約束のものを得るために忍耐が必要であるというのは聖書に書かれている真理です。しかし、神があえて約束の実現を遅らせて、意図的に忍耐させているのか?というと、そうではありません。忍耐が必要なのは確かですが、その原因は人間側にあります。 約束があっても、それらの約束を知るために時間がかかり、忍耐がともなう。 知ったとしても、その神の約束を信じるために時間がかかり、忍耐がともなう。 信じたとしても、それが行動にあらわれるまでに時
Katsumi Sunaga
10月8日読了時間: 4分
私たちにとっての「初歩の教え」「成熟」とは何ですか?
質問:ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。[ヘブル 6:1] 答え: ここでも大切になるのは、ヘブル書全体の文脈です。ヘブル書の文脈でもっとも大きなものは、これが「ユダヤ人の信者たち」に向けて書かれているということです。ヘブル書には、祭司制度、いけにえ、神殿、預言者などについて書かれており、明らかに旧約聖書に精通している人 (ユダヤ人) が読むことが前提となっています。ヘブル書は、律法による善悪の行いによって救われることに慣れ親しんだユダヤ人が、律法から自由にされてイエスを信じる信仰によってのみ救われるということに対して直面していた恐れと不安に対する答えとして書かれていることです。 さらに続く2節には、「初歩の教え」 についてこう書かれています。 「死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、 手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再び やり直したりしないようにしましょう。」 [ヘブル 6:2] 多くの教会は、この初歩の教えとは、「罪
Katsumi Sunaga
10月6日読了時間: 4分
人は行いによって義と認められる?
質問:「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。」 とありますが、やっぱり人は行いによって義と認められるのでしょうか? [ヤコブ 2:24] 答え: ヤコブはこのように述べていますが、パウロが信仰による義について何と言っているのかも見てみましょう。 「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められるのです。」 (ローマ 3:28) 「人は律法を行いによってではなく、ただイエスを信じることによって義とされるのです。」 (ガラテヤ 2:16) ヤコブは義のために行いが必要だと言い、パウロは義のためには信仰だけでいいと言っているので、一見すると2つの教えが矛盾していると感じます。 事実、宗教改革を起こしたマルチン・ルターは、信仰による義を掲げるがため、「ヤコブ書は新約聖書から削除すべきだと言った」 というような逸話があるほどです。 パウロが伝えている義は、イエスを信じることによって 「内に受ける神の義」 という側面です。これは受身的で、神から一方的にもらうものです。そういう意味では、人間が
Katsumi Sunaga
9月9日読了時間: 3分
ずる賢い管理人と不正の富?
質問:ずる賢い管理人のたとえは何を教えているの? [ルカ 16:1-13] 聖書を読むのであれば、イエスの十字架の陰に宿るために読みたい思います。でも、ルカ16:1〜13を読むと、「こうしたらいい」「こうしないのがいい」という考えになってしまいます。ここはどのように読んだらいいですか?。 答え: イエスの十字架の赦しについて教えているたとえです。 この賢い管理人と不正の富のたとえも難解な箇所の一つです。 これは、前章の15章から続くたとえの一貫として書かれています。たとえが向けられた聴者はおもにパリサイ人たちでした。そして 「隣人に対してどのように愛と恵みと赦しをもって接するのか」 ということが中心のメッセージです。そのクライマックスとして、15章の終わりに、放蕩息子のたとえと兄 (パリサイ人) が登場します。 16章はその同じメッセージの続きとして書かれているので、同じ文脈と聴者とメッセージを保つことが重要になります。16章では 「弟子たちに対しても」 と追加されますが、基本的にはパリサイ人たちがおもな聴者です。 さらにここでは当時のユダヤ文化
Katsumi Sunaga
4月23日読了時間: 4分
信仰という選択?
質問:救われるためには信仰によって神を選ぶ必要がある。それは不公平では? 人間は生まれつき罪人なのに、救われるためには信仰が必要となる...。それは不公平ではないですか? 罪人となると選んで生まれたわけではないのに、罪人として生まれた。それなら、義人となると選ばなくても、生まれつき義人にしてしまえばいいのでは...? イエスがアダムより強いのなら、そうできるのではないですか? 答え:罪の原点を見ると、私たちの「選択」こそ鍵なのです。 「選んだわけでもない」ということばから、「罪人は生まれるだけで罪人なのに、義人になるためには選択しなければならないのか」という不公平感を感じておられるのです。それについて、その理由を一緒に、ひもといてみましょう。 おっしゃる通り、じつは、この不公平についての答えが福音が伝えているポイントです。無条件で罪人であるということは、別のことばで言えば、「罪人となる以外に選択肢がなかった」という意味です。自分で選んだわけでもないのに罪人・・・すなわち 「別の選択肢があれば、違う道を選んだだろうに・・・」ということでしょう。 神
Katsumi Sunaga
3月5日読了時間: 2分
「義」の正体とは?
質問:「義」って難しい 「義」という言葉は普段の生活では使うことがないと思います。また、オリジナルゴスペルの中で論理的に定義されていないようで、よく理解できません。 具体的にどういう意味なのでしょうか? 答え:「義人」とは「イエスの性質」 たしかにそうですよね。「義」という言葉は、日常生活ではなじみが薄く、どこか堅苦しく感じてしまうのも無理はありません。一緒にその本質をひも解いていきましょう。 聖書の中で、「義」ということばは、シンプルに「罪」ということばの反対(対照)として用いられています。 ですから、「義人」の反対は「罪人」となるわけです。 では、その中身は何なのか。 まず、「罪」とはすなわち「悪魔の性質」のことです。 アダムが(エデンの園で)実を食べたとき、単に「罪という概念」が入ったのではなく、いわば「悪魔が入ってきた」のです。ですから、聖書が「私たちは罪人である」というとき、それは「私たちは悪魔の性質を持つ人である」という、存在そのものの状態を指しています。 反対に、「義」とは、すなわち「イエスの性質・神の性質」のことです。..
Katsumi Sunaga
2月18日読了時間: 2分
無条件?条件付き?
質問:「キリストを信じるなら」という条件 オリジナルゴスペルでは「無条件」という言葉がよく出てきますが、「キリストを信じる」というのは、救いのための「条件」なのではないでしょうか。 また、そこには自分の「選択」も含まれているように感じます。 答え:差し出された恵みを、信仰で受け取る 聖書を読み進める中で直面する、非常に鋭く、かつ大切なポイントですね。 一緒にひも解いていきましょう。 結論からお伝えすると、はい。確かにその通りです。 皆さんに正しく理解しておいてもらいたいのですが、「救い」は無条件ではありません。 私たちの教会でも、神の「無条件の愛」は強調しますが、「無条件の救い」とは言わないように気をつけています。 なぜなら、神はご自分を信じない人でさえ無条件に愛されますが、信じようとしない人を無理やり救うことはできないからです。 かつてアダムが、神のことばを信じないという「不信仰」によって神との関係を切り離してしまいました。 ですから、その関係を戻すためにも「神を信じる信仰」が条件となります。 十字架の福音は、神の側から一方的に、無条件の恵
Katsumi Sunaga
2月18日読了時間: 2分
義人にする力と私たちの選択
質問:キリストの力が勝っているなら、信じなくても自動的に救われるのでは? アダムによって全ての人が罪人になる力よりも、キリストの「義人にする力」の方がはるかに勝っているはずです。 それならば、キリストを知らなくても、信じなくても、すべての人が自動的に救われるのではないでしょうか? 答え:「力の強さ」ではなく「誰を受け入れるか」という対話 神様の力の偉大さに目を留めた、非常に鋭い視点ですね。 一緒にひも解いていきましょう。 この問いへの答えは、救いが単なる「力の強さの勝負」ではないというところにあります。 実は、イエス様が十字架にかかる前から、いえ、天地創造の初めから、神様は常に悪魔に勝っておられます。義の力は、いつだって罪の力よりもはるかに優れているのです。 力の大小は問題ではありません。 本当の問題は、私たち人間が「悪を好む存在」になってしまったこと、そして「あえて神様から離れる道を選んでしまう存在」になったことにあります。 たとえ神様の義の力がどれほど強くても、一人ひとりがその力を自ら選び、受け入れ、自分のものとしなければ、その力はその人の人
Katsumi Sunaga
2月18日読了時間: 2分
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