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Ask the pastor
聖書と福音のQ&A
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婚礼で礼服を着ない人?
質問:なぜ王様は大通りにいた人を招待したのにも関わらず、礼服を着てない人を外の暗闇に放り投げたのですか?礼服を持ってなくて当たり前ではないのですか? [マタイ 22:1-4] 答え: 今も昔も、正式に婚礼に招待された客は、その人の社会的なランクに合わせて参加するための衣装を自分で準備するというのは当然です。しかし、このたとえの中では、それらの正式に招かれた客は婚礼に来ようとしませんでした。そこで、「しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった」 とあります。婚礼に参加したのは、「路上からそのまま来た人たち」 でした。私たちは、「路上からそのまま来たんだったら礼服がなくて当然でしょう?なぜ追い出されるの?」と不思議になりますね。 しかし、当時のユダヤの婚礼では、婚礼に招かれたけれども、その衣装を準備することができない人たちに対しては、主催者側が衣装を準備してあげるという風習があったそうです。ですから、このたとえでも、路上から来た人々に対して、主催者側から礼服が提供されたに違いありません。
Katsumi Sunaga
4 日前読了時間: 3分
イエスのために家族と財産を捨てる?
質問:「私のために父、母、妻、子、あるいは財産を捨てた者は誰でも百倍の報いを受け〜」とありますが、家族を捨て、財産を捨てた者とはどんな人でしょうか? 百倍の報いとは何でしょうか? [マタイ19:29] 答え: 宗教の自由が認められている日本では、このような事象は想像しにくいですよね。しかし、昔だけでなく、今も、イエスを主として認めることを公言するために、両親に捨てられ、全財産を没収される人々がたくさんいます。 ユダヤ人は、今でも、「自分がイエスを信じた」 と言った瞬間、家族から勘当され、コミュニティから破門され、時に自分の子供や財産でさえ取り上げられることがあります。「イエスを信じたユダヤ人は本当のユダヤ人ではない」として、国籍も取り上げられる危険さえあります。これは、彼らが自ら進んで捨てたというよりは、「取り上げられた」 ということであり、それにもかかわらずイエスを捨てなかった、という意味で、イエスを捨てるよりは、家族を 「捨てた」 という表現がされているのです。 私も個人的に、あるアラブ人がイエスを信じた結果、父親から暗殺者を雇われ、今でも命
Katsumi Sunaga
4 日前読了時間: 3分
らくだが針の穴を通る?
質問:「らくだが針の穴を通る」とはどういう意味でしょうか。 実際に針の穴と言う門がある?または場所があったのですか? [マタイ19:23] 答え: 最近の文献の中には、「当時は本当に針の穴という門があった」 という説もありますが、それは後世に出てきた作り話のようなもので、実際に考古学的に立証されたものではありません。これはイエスがたとえとして用いられた表現だと思われます。 当時、ラクダは中東で最も大きい動物でした。それが最も小さい針の穴を通るというイメージを思い浮かばせたかったのだと思います。「それはむずかしい」 と言われましたが、実際はむずかしいどころか不可能です。金持ちだけでなく、人間が救われるのはそれほど不可能なことなのです。実際に、これを聞いた弟子たちは、「それでは、いったい誰が救われることができるのですか?」と聞きました。それに対してイエスは、「それは人にはできません。しかし、神にはできるのです。」と言われました。 これは金持ちについての描写なので、金持ちに当てて解釈するとすれば、ラクダが実際に小さな穴を通る姿をイメージしてみてください
Katsumi Sunaga
4 日前読了時間: 2分
なぜ金持ちの青年は全財産を求められた?
質問:なぜ金持ちの青年に全財産を売り払い貧しい人に分け与えるように言ったのでしょうか?全部売り払わなくても、貧しい人に豊かに施したり、宣教のために献げるようにするのではダメだったのでしょうか。[マタイ19:21] 答え: 確かに、全財産というのは難しい要求ですね。しかし、ここでイエスが伝えたいのは財産の「全額か、一部か」という問題ではありません。この青年がイエスという方に対して 「どれほどの価値を見出しているのか」 というものです。イエスという方が、自分の持っている金銭、所有物のすべてにまさって価値ある存在なのか否かということを聞かれたのです。 律法にかなった正しい行いをしている青年に対して、あなたの行いではなく、イエスという方がどれほど貴重なのか見せてほしいと願われたのです。恐らくこの青年は、イエスと金銭を天秤に置いた時、金銭の価値のほうが重かったのでしょう。悲しみながら帰って行ったということは、イエスに出会い、イエスを眼の前にしても、金銭を手放すのが惜しくなったということでしょう。たとえ貧しい人に金銭の一部を施しても、宣教のために献げても、そ
Katsumi Sunaga
4 日前読了時間: 2分
結婚についての教えを理解したいです。
質問: 結婚しないように生まれついた人、人から独身者にされた人、天国のために結婚しない人もいます。とありますがどんな人の事ですか。[マタイ19:11〜13] 答え: 当時のユダヤ文化は、旧約聖書による男性優位主義により、結婚関係において男性が非常に大きな力を持っていました。特に離婚については、パリサイ派などからの教えにより、「男性は好きな時に、好きな理由で、勝手に妻を離婚して手放すことができる」 という間違った教えを信じていました。イエスはそれを正し、結婚について、男性が好き勝手に振る舞うことはできないと教え、男性至上主義の価値観を責められました。それには弟子たちでさえ、「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです」と答えたほどです。それに対してイエスは、 1)結婚は神の定めであり、人が好き勝手に振る舞っていいものではない。 2)結婚しているか否かで、その人の価値を判断してはいけない。 3)結婚してもしないにしても、神のためにそれをしなさい。 と教えられているのです。この文脈の中でこれを理解すると、マタイ 19:11-13.
Katsumi Sunaga
4 日前読了時間: 2分
御国の奥義を知ることが許されていない人たち?
質問: イエスが言った「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません」とはどう言う意味ですか?福音の真理がわざと理解できないようにしていたと言うことですか? [マタイ 13:11] 答え: これについては、イエス本人が、13章13節でその理由を述べておられます。 「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです」 この説明からすると、あえてイエスの方から人々が理解できないようにしているのではなく、彼らのほうが 「見えていない、聞いていない、悟っていない」 ということになります。 イエスの本心は、ユダヤ人全国民がイエスを神として見て、イエスを主として受け入れ、イエスが救い主 (メシア) だと悟ることです。しかし、彼らのほうでそれを見ようとしない、聞こうとしない、悟ろうとしないというのが現実だったのです。イエスが彼らを理解させなかったのではなく、彼らがそれを選び、かえってイエスがそれに対応するしかなかったということです。 そのような聞く耳のない、
Katsumi Sunaga
4 日前読了時間: 3分
なぜ「わたしを愛しますか?」と3回も聞いた?
質問: ヨハネ 21:15-17で、イエスはペテロに 「あなたは私を愛しますか。」と3回質問し、ペテロは 「わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです。」と3回答えました。しかしギリシャ語では、イエス様の1、2回目の質問は「あなたは私をアガパオーしますか?」、そして3回目の質問は「あなたは私をフィレオーしますか?」と聞いており、異なる動詞を使っています。ペテロはそれに対し、3回とも「私はあなたをフィレオーします」と回答しています。 質問① どのようにこの箇所を解釈すべきでしょうか。 質問②ヨハネは何を強調したかったのでしょうか。 質問③イエス様が話したアラム語でもそのような意味合いの違いがあったのでしょうか。 答え: 質問に一つずつ答えさせていただきます。 質問① 解釈について 確かにこの箇所は、イエスが十字架にかかる前、ペテロがイエスを3回にわたって否定したので、復活された後、イエスはペテロの信仰を完全に回復するために、イエスを愛していることを3回確認されたというものです。 しかしこれは、イエスがそれを知りたいと願っていたのではなく、ペテ
Katsumi Sunaga
4 日前読了時間: 4分
キリストの苦しみの欠けたところ?
質問: パウロが言った、 「キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」 とはどういう意味ですか? [コロサイ 1:24] 確かに、私たちはいつも、「イエスが完全に私たちの罪を背負われた」 と聞いているので、なぜ欠けているのか、そしてパウロといえど人間がそれを満たすとはどういうことかと疑問に思ってしまいます。 これは、イエスの十字架の苦しみについて語っているのではありません。十字架の苦しみはイエスだけが背負い、それを欠けるところなく満たしてくださいました。 ここでパウロが言っている 「イエスの苦しみの欠けたところ」 とは、イエスの十字架の苦しみのことではなく、イエスが 「福音を宣教することについての苦しみ」 のことです。 イエスは公生涯を3年半しか過ごすことがなく、福音をイスラエル全土、さらに世界全国に宣べ伝えることについては、まだ 「欠けたところ」 があったのです。パウロは、イエスがすることができなかった全世界・全人類への福音宣教の労苦が足りなかったところについて、その部分を満たしているのだと宣べたのです。 さらに、「苦しみを満たす」
Katsumi Sunaga
7月8日読了時間: 3分
心を開けばイエスを知れるなら、みんなの心を開いてしまえばいいんじゃないですか?
質問: 「主がリディアという女性の心を開いた」 と書いてありますが、だったら主は全世界の人の心を開いて福音を広めることはできないのですか? [使徒 16:14] 答え: それはそれぞれの人の心の状態に左右されます。 確かにそう思いますよね。 でも神様は、人々の心を無理矢理こじ開けて、欲しくもないものを強制的に与えるお方ではありません。いくら神様でも、人間の主権と自由意志を無視して、勝手に人の心をいじることはできません。 この箇所の理解で大切になるのは、リディアについて少し前に書かれている 「神を敬う女性であった」 という記述です。リディアは、パウロに会う前から、すでに神を敬っている女性であり、神について知りたいと願っていた女性であったということが大きな前提です。さらに、安息日に川沿いにある祈り場にまで行くほど忠実だったので、その敬虔さと忠実の結果として、川沿いでパウロに出会うことになるのです。 心を開くという原語は、「完全に開く」 とか 「理解力を与えた」 という意味で、すでに少しばかり知っていたことが、さらにもっと完全に理解できたということです
Katsumi Sunaga
5月29日読了時間: 3分


聖霊が福音宣教を禁じた?
質問:なんで聖霊はパウロたちがアジアやビティニアに福音を広めることを禁じたのですか? [使徒 16:6-7] 全世界に福音を伝えるのは神の御心だったのではないですか? 答え: パウロ以外にも福音を伝える使徒たちがいたからです。 このブログで前述「テオフィロ様って誰ですか?」したように 、使徒の働きはパウロが中心人物として書かれているので、福音を異邦人に伝えたのはパウロだけのような感覚に陥ることがあります。しかし実際は、十二使徒たちのほとんどがイスラエル以外の地域、国々に出て行って福音を伝えたという記録があります。 下の地図をご覧になると分かりますが、12使徒たちをはじめ、それに続く70人の弟子たち、さらには500人の復活の目撃者たち、それからペンテコステの日に加えられた 3,000人の弟子たちが、それぞれ福音を携えてさまざまな地域に遣わされたというのが現実です。特に12使徒たちによって、東はイラン、北はロシア、南はエジプト、さらに遠東インドまで福音が伝わったとされています。 このように神の視点から見ると、アジアやビテニア地方というアジア地方はすで
Katsumi Sunaga
5月29日読了時間: 3分
主はご自分を求める人に出会ってくれるものだと思っていましたが?
質問:サウロはキリストを求めるばかりか、逆に迫害している人物だったのに、なぜ神が明確に出会ってくれたのですか? [使徒 9:1-] そしてなぜ彼の人生が大きく作り変えられたのでしょうか? 答え: 神は人の心の奥底を読まれるお方です。 主は、ご自身を求める者に出会われるというのは確かです。ここで注目するのは、「主を求めるにもたくさんの方法と表現がある」 ということだと思います。 パウロは確かにクリスチャンを迫害していましたが、心の中では、本物の神を求め続けており、本物の神を熱心に追求するという心が、彼の 「迫害」 という方法で表現されたのだと思います。事実、ギリシャ語では、「強く追い求める」 という言葉と 「迫害」 は同じ言葉なのです。 そういう意味では、パウロは、クリスチャンを迫害していたものの、同時に 「主を求めている者」 でもあったのでしょう。神はパウロの心の中の 「本当の叫び」 に答えて、明確に出会ってくれたのだと思います。 彼の人生が大きく用いられたのは、彼が迫害のために使っていた激しい追求心をキリストに向けたからだと思います。激しい迫害
Katsumi Sunaga
5月29日読了時間: 3分
神はなぜアナニヤを用いたのですか?
質問:なぜ、イエスは自分でサウロの目を癒さず、アナニアを使ったのですか? [使徒 9:3-] わざわざアナニヤを説得したりせず、自分で癒してしまえばよかったのでは? 答え: 神はご自分が立てた原則に忠実なお方だからです。 神が直接パウロの目を癒さなかったことには、いくつかの理由があると思います。 ① 神は、人間に触れるために直接的に手を出すことはされない。 天地創造のときから、神は、人間に地上のすべての支配の権威と力を与えられたので、神が直接 人間に関わることはできません。そのため通常、神は人間を用いて働かれます。もしくは人間の姿をした天使たちが用いられることもありますが、それは人間の力をはるかに超えた事柄を実行するとか、人間に神からのメッセージを伝えるだけの伝言者のような役割です。神がイエスという姿の人間になられたのも、地上で変化をもたらすことができるのは人間だけだったからです。パウロの目をいやすときも、神はご自分の原則に従われ、アナニヤという人間を用いられたということです。 ② パウロが回心したことの証人となるため。 パウロはダマスコという
Katsumi Sunaga
5月29日読了時間: 3分
ステパノは、なぜアブラハムからソロモンまでの物語を話したのですか?
質問:その物語と使徒 7:51〜53はどのように繋がっているのですか? [使徒 7:1-53] ステパノがしたイスラエルの歴史の口述と、彼のまとめの説教の関連性を教えてください。 答え: 歴史の昔から示されていたイエスのひな型と、ユダヤ人のかたくなな心の叱責です。 ステパノは、モーセの慣習を変えて神殿を壊そうとしているという訴えに対して答えています。ですから、その反論として、モーセについてと神殿についての弁証を展開することになります。 その中で、ステパノが強調しているのは、ユダヤ人たちは、神が立てて遣わした人々を常に迫害して拒絶してきたという歴史です。これを通してステパノは、ユダヤ人がついにはイエスという神が立てて遣わした救い主さえも拒絶して殺してしまったと責めているのです。さらにこの箇所では、イスラエルの歴史で神に選ばれて遣わされた人物とイエスを重ねて語ることによって、今でも同じ過ちを繰り返していると訴えています。 神に選ばれたアブラハムはこの地に入ったが、相続地は足の踏み場もないほどだった。すなわちアブラハムの子孫であるイエスもこの地に来たが
Katsumi Sunaga
5月28日読了時間: 3分
水のバプテスマと聖霊のバプテスマは違うものですか?
質問:サマリアの人々がバプテスマを受けていたが聖霊は下っていなかった、とありますが、水の洗礼を受けたからといって、聖霊のバプテスマを受けたことにはならないということでしょうか? [使徒 8:15-25] 自分の体験としては、確かに同時ではなかったのですが、2つのバプテスマについてその関係性と考え方をちゃんと知りたいです。 答え: 水のバプテスマと聖霊のバプテスマは、別のものです。 聖霊のバプテスマの理解については、2,000年の教会歴史の中でさまざまな解釈や定義がされてきました。そのため、水のバプテスマを受けたと同時に聖霊のバプテスマも受けたと信じる方々もいます。しかし私たちは、この聖書の箇所などに基づいて、水のバプテスマと聖霊のバプテスマは 「別々の異なる体験である」と信じています。 使徒 10:44- では、ペテロがコルネリオさんの家で福音を語っていると、そこにいた人々に聖霊のバプテスマが下りました。そこでペテロは、「彼らが聖霊のバプテスマを受けたのなら、水のバプテスマも受けさせるべきだ」 と言いました。ペテロは、聖霊のバプテスマと水のバプテ
Katsumi Sunaga
5月28日読了時間: 2分
テオフィロ様って誰ですか?
質問:ルカ福音書と使徒の働きの初めに、「テオフィロ様へ」と宛名がありますが、これは誰ですか? 二度も出てくるので興味がわきました。誰か分かれば教えてください。 答え: ローマで、パウロの裁判を担当した司法関係者と思われます。 パウロは晩年、エルサレムにいるときに、ユダヤ人たちの陰謀によって捉えられました。さらにユダヤ人たちの暴徒や暗殺計画を避けるために、地中海沿いのカイサリアという町で幽閉されていたとき (AD 60-62)、裁判について選択肢が与えられた際に、パウロは、「私はエルサレムでユダヤ人たちによって裁かれるよりは、ローマのカイサルに上訴します」 と言いました。そのため、パウロはローマに行って、カエサルをはじめとする高官たちから裁判を受けることになりました。 テオフィロとは、パウロのローマ裁判で司法を担当した人物と思われます。検事側か弁護士側かは分かりませんが、ルカが彼に対して敬語を使っているので、相当の立場の人物だったと思われます。 しかし、パウロを裁判すると言っても、ユダヤ人の宗教観や歴史に詳しくない人たちでは正しく裁判できるはずがあ
Katsumi Sunaga
5月28日読了時間: 3分
「ペテロ」 なのに 「シモン」?
質問:イエスご自身がシモンにペテロという新しい名前をつけたのに、なぜまた 「シモン、シモン」 と呼ばれたのですか? [ルカ 22:32] イエスがペテロをあえて「シモン」と呼ばれたことに意味があるのなら教えてください。 答え: 意味もありますが、深読みし過ぎないようにしましょう。 「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。」 という箇所ですね。 前のブログ、https://www.the-oasis.jp/post/マタイとレビは同一人物 でも述べたように、当時のユダヤ文化では、一人の人が、ヘブル語、アラム語、ギリシャ語、ラテン語などで名前 (もしくはニックネーム) を持つことは当たり前のことでした。姓がなく名前だけで呼ばれていた文化圏では、なおさら個々人を区別するために、ただの流行以上に必要性が高かったようです。 シモンがイエスによってペテロ (岩) と名付けられたことには預言的な意味があります。マタイ 16:18 で 「この岩の上に教会を建てる」 というほどの重要な預言的な意味
Katsumi Sunaga
4月30日読了時間: 3分
次男も?
質問:ルカ 20:30 は、 「次男も」 だけの超短い節ですが、なぜそんな短い節があるのですか? [ルカ 20:30] こんな節になったのには何か深い意味があるのでしょうか? 真相を教えてください。 答え: あまり意味はありません。☺️ これを教える前にまず知っておく必要があるのは、オリジナル原語の聖書 (ヘブライ語の旧約聖書とギリシャ語の新約聖書) には、章と節などは存在せず、区切りのないシームレスな書物だったということです。章と節は、聖書が他国語へ翻訳されていく中で、作業の都合と便宜上の目的で付け足されたものです。まず1200年初頭、聖書をラテン語に翻訳する際に 「章」 が入れられ、また1500年後期に 「節」 が付け加えられました。 さらに、章と節の区切りの霊的な意味とかいうものもあまり知られておらず、当時の翻訳者が霊的に解釈してベストを尽くして区別したのでしょうが、多くは翻訳の便宜上の都合というものが大きく反映されているということらしいです。 その過程の中で、ルカ 20:30 の 「次男も」 のような節が出てくることになります。しかし、
Katsumi Sunaga
4月30日読了時間: 3分
私たちの信仰を増してください!
質問:これに対するイエスの答えが例えなので分かりづらいです。 [ルカ 17:5-10] 「信仰があれば何でもできる」 というのではなく、「神に言われたこと」を疑わないで信じて実行するなら何でもできる。という事でしょうか? 答え: その通りです。 信仰とは、神のことばへの応答です。 このたとえで、イエスは信仰についていくつかの原則を教えておられるようです。 ① あなたがたはすでに十分な信仰を持っています。 「あなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、木を海に動かすこともできます」 というところから、信仰とは自分の訓練によって増やしたり、大きくしたり、伸びたりするようなものではない、また信仰は量や大きさなどで測るものではないと教えられています。 ② 信仰は、神のことばに対する 「忠誠心」 です。 ルカ17:9に 「あなたも、自分に命じられたことを行ったら、なすべきことをしただけですと言いなさい。」 とあるように、まことの信仰とは、神のことばに沿って行動する時に自然に力を発揮するものです。必要なのは信仰の量や大きさではなく、神のことばへの忠誠心・依存心
Katsumi Sunaga
4月23日読了時間: 3分
ずる賢い管理人と不正の富?
質問:ずる賢い管理人のたとえは何を教えているの? [ルカ 16:1-13] 聖書を読むのであれば、イエスの十字架の陰に宿るために読みたい思います。でも、ルカ16:1〜13を読むと、「こうしたらいい」「こうしないのがいい」という考えになってしまいます。ここはどのように読んだらいいですか?。 答え: イエスの十字架の赦しについて教えているたとえです。 この賢い管理人と不正の富のたとえも難解な箇所の一つです。 これは、前章の15章から続くたとえの一貫として書かれています。たとえが向けられた聴者はおもにパリサイ人たちでした。そして 「隣人に対してどのように愛と恵みと赦しをもって接するのか」 ということが中心のメッセージです。そのクライマックスとして、15章の終わりに、放蕩息子のたとえと兄 (パリサイ人) が登場します。 16章はその同じメッセージの続きとして書かれているので、同じ文脈と聴者とメッセージを保つことが重要になります。16章では 「弟子たちに対しても」 と追加されますが、基本的にはパリサイ人たちがおもな聴者です。 さらにここでは当時のユダヤ文化
Katsumi Sunaga
4月23日読了時間: 4分
必死に、何度も、しつこく求める?
質問:神様は必死に何度も求めないと聞いてくれないのですか? [ルカ 11:5-13] ここのたとえに出てくる神様は、なかなか願いごとを聞いてくれず、必死にしつこく祈らないと叶えてくれないように思えますが・・・。 答え:父なる神はそうではなく、まったく正反対です。 ここでイエスが言われた例え話は、理解しづらい箇所としてあげられるたとえの一つです。 一見するとイエスは、「友人に対して普通に求めても聞いてくれないが、しつこく頼んだら聞いてくれる」 と教えているように見えます。しかし、ここは 「しつこさ」 について教えているのではなく、「誰に」 頼んでいるのかということを教えようとしているのです。 ここでイエスが言いたいのは、「あなたの友人でさえ都合が悪い真夜中であっても結局は願い事を聞いてくれるだろう。であるならば、あなたの父ならどれほど簡単にあなたの願いをかなえてくれると思う?」 と伝えているのです。 このような理解しづらい文節は、それが書かれている文脈全体を見る必要があると思います。事実、11章2節では、「このように祈りなさい。私たちの父よ・・・」
Katsumi Sunaga
4月17日読了時間: 2分
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