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Ask the pastor
聖書と福音のQ&A
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信仰という選択?
質問:救われるためには信仰によって神を選ぶ必要がある。それは不公平では? 人間は生まれつき罪人なのに、救われるためには信仰が必要となる...。それは不公平ではないですか? 罪人となると選んで生まれたわけではないのに、罪人として生まれた。それなら、義人となると選ばなくても、生まれつき義人にしてしまえばいいのでは...? イエスがアダムより強いのなら、そうできるのではないですか? 答え: 罪の原点を見ると、私たちの「選択」こそ鍵なのです。 「選んだわけでもない」ということばから、「罪人は生まれるだけで罪人なのに、義人になるためには選択しなければならないのか」という不公平感を感じておられるのです。それについて 、その理由を 一緒に、ひもといてみましょう。 おっしゃる通り、じつは、この不公平についての答えが福音が伝えているポイントです。無条件で罪人であるということは、別のことばで言えば、 「罪人となる以外に選択肢がなかった」 という意味です。自分で選んだわけでもないのに罪人・・・すなわち 「別の選択肢があれば、違う道を選んだだろうに・・・」ということで
Katsumi Sunaga
5 時間前読了時間: 2分
系図は何のため?
質問:聖書の系図には意味があるのですか? 福音書にはなぜ人名を列挙する系図が書かれているのでしょうか? 何の目的があるのでしょうか? また、私たちはそこを詳しく読む必要があるのでしょうか。 答え: 救い主の「身分」を証明する、命のバトン 聖書を開いて、ずらりと並ぶ人名を目にすると、どうしても難しく感じてしまいますよね。 ですが、なぜ聖書がこれほどまでにページを割いて系図を記しているのか、その理由を 一緒に、ひもといてみましょう。 まず背景として知っておきたいのは、ユダヤ人にとって系図は自分の出生を証明する、何よりも大切なものだったということです。自分がどの部族に属し、どの土地に住み、その土地の相続権は誰にあり、またどのような社会的地位にあるのか。それらすべては系図に載っている先祖によって証明されました。 特に、王を輩出する「ユダ族」や、神殿で仕える祭司の「レビ族」にとっては死活問題です。系図による証明がなければ、王になることも、祭司として仕えることもできなかったからです。 系図を読み解くうえで最も重要なポイントは、「最初に出てくる人」と「最後に出
Katsumi Sunaga
2月19日読了時間: 3分
パリサイ人、サドカイ人って誰ですか?
質問:パリサイ人? サドカイ人? 福音書を読んでいると、パリサイ人やサドカイ人が出てきますが、この人達は、どこかの国の人ですか?それとも何かの職業のことでしょうか? 答え: 人種ではなく、ユダヤ教の中の「正反対な二大宗派」 福音書を読んでいるとしばしば登場するこの名前。日本語では「〜人」という呼ばれ方をしますが、実はペリシテ人のような人種(民族)のことではありません。これは当時のユダヤ教にあった「宗派」を指しており、現代の私たちには 「パリサイ派」「サドカイ派」 と呼ぶ方が理解しやすいかもしれませんね。どちらもBC150年あたりから登場し、ギリシャ帝国からローマ帝国へ移行していく中で、イスラエルに王が不在であった時期に国の主導権を握ったグループです。 聖書の世界をより深く知るために、一緒にその本質をひも解いていきましょう。 まず「パリサイ派」についてですが、これは「分離」を意味する「パリシー」という言葉が語源となっています。 その名の通り、聖書のことばを文字通り厳格に守り、世俗的な汚れから自分たちを切り離して生きようとした人々で、「律法学者」とも
Katsumi Sunaga
2月19日読了時間: 3分
「義」の正体とは?
質問:「義」って難しい 「義」という言葉は普段の生活では使うことがないと思います。また、オリジナルゴスペルの中で論理的に定義されていないようで、よく理解できません。 具体的にどういう意味なのでしょうか? 答え:「義人」とは「イエスの性質」 たしかにそうですよね。「義」という言葉は、日常生活ではなじみが薄く、どこか堅苦しく感じてしまうのも無理はありません。一緒にその本質をひも解いていきましょう。 聖書の中で、「義」ということばは、シンプルに「罪」ということばの反対(対照)として用いられています。 ですから、「義人」の反対は「罪人」となるわけです。 では、その中身は何なのか。 まず、「罪」とはすなわち「悪魔の性質」のことです。 アダムが(エデンの園で)実を食べたとき、単に「罪という概念」が入ったのではなく、いわば「悪魔が入ってきた」のです。ですから、聖書が「私たちは罪人である」というとき、それは「私たちは悪魔の性質を持つ人である」という、存在そのものの状態を指しています。 反対に、「義」とは、すなわち「イエスの性質・神の性質」のことです。..
Katsumi Sunaga
2月18日読了時間: 2分
無条件?条件付き?
質問:「キリストを信じるなら」という条件 オリジナルゴスペルでは「無条件」という言葉がよく出てきますが、「キリストを信じる」というのは、救いのための「条件」なのではないでしょうか。 また、そこには自分の「選択」も含まれているように感じます。 答え:差し出された恵みを、信仰で受け取る 聖書を読み進める中で直面する、非常に鋭く、かつ大切なポイントですね。 一緒にひも解いていきましょう。 結論からお伝えすると、はい。確かにその通りです。 皆さんに正しく理解しておいてもらいたいのですが、 「救い」は無条件ではありません。 私たちの教会でも、神の「無条件の愛」は強調しますが、「無条件の救い」とは言わないように気をつけています。 なぜなら、神はご自分を信じない人でさえ無条件に愛されますが、信じようとしない人を無理やり救うことはできないからです。 かつてアダムが、神のことばを信じないという「不信仰」によって神との関係を切り離してしまいました。 ですから、その関係を戻すためにも「神を信じる信仰」が条件となります。 十字架の福音は、神の側から一方的に、無条件の
Katsumi Sunaga
2月18日読了時間: 2分
義人にする力と私たちの選択
質問:キリストの力が勝っているなら、信じなくても自動的に救われるのでは? アダムによって全ての人が罪人になる力よりも、キリストの「義人にする力」の方がはるかに勝っているはずです。 それならば、キリストを知らなくても、信じなくても、すべての人が自動的に救われるのではないでしょうか? 答え:「力の強さ」ではなく「誰を受け入れるか」という対話 神様の力の偉大さに目を留めた、非常に鋭い視点ですね。 一緒にひも解いていきましょう。 この問いへの答えは、救いが単なる「力の強さの勝負」ではないというところにあります。 実は、イエス様が十字架にかかる前から、いえ、天地創造の初めから、神様は常に悪魔に勝っておられます。義の力は、いつだって罪の力よりもはるかに優れているのです。 力の大小は問題ではありません。 本当の問題は、私たち人間が「悪を好む存在」になってしまったこと、そして「あえて神様から離れる道を選んでしまう存在」になったことにあります。 たとえ神様の義の力がどれほど強くても、一人ひとりがその力を自ら選び、受け入れ、自分のものとしなければ、その力はその人の人
Katsumi Sunaga
2月18日読了時間: 2分
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