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Ask the pastor
聖書と福音のQ&A
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「ペテロ」 なのに 「シモン」?
質問:イエスご自身がシモンにペテロという新しい名前をつけたのに、なぜまた 「シモン、シモン」 と呼ばれたのですか? [ルカ 22:32] イエスがペテロをあえて「シモン」と呼ばれたことに意味があるのなら教えてください。 答え: 意味もありますが、深読みし過ぎないようにしましょう。 「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。」 という箇所ですね。 前のブログ、https://www.the-oasis.jp/post/マタイとレビは同一人物 でも述べたように、当時のユダヤ文化では、一人の人が、ヘブル語、アラム語、ギリシャ語、ラテン語などで名前 (もしくはニックネーム) を持つことは当たり前のことでした。姓がなく名前だけで呼ばれていた文化圏では、なおさら個々人を区別するために、ただの流行以上に必要性が高かったようです。 シモンがイエスによってペテロ (岩) と名付けられたことには預言的な意味があります。マタイ 16:18 で 「この岩の上に教会を建てる」 というほどの重要な預言的な意味
Katsumi Sunaga
4月30日読了時間: 3分
次男も?
質問:ルカ 20:30 は、 「次男も」 だけの超短い節ですが、なぜそんな短い節があるのですか? [ルカ 20:30] こんな節になったのには何か深い意味があるのでしょうか? 真相を教えてください。 答え: あまり意味はありません。☺️ これを教える前にまず知っておく必要があるのは、オリジナル原語の聖書 (ヘブライ語の旧約聖書とギリシャ語の新約聖書) には、章と節などは存在せず、区切りのないシームレスな書物だったということです。章と節は、聖書が他国語へ翻訳されていく中で、作業の都合と便宜上の目的で付け足されたものです。まず1200年初頭、聖書をラテン語に翻訳する際に 「章」 が入れられ、また1500年後期に 「節」 が付け加えられました。 さらに、章と節の区切りの霊的な意味とかいうものもあまり知られておらず、当時の翻訳者が霊的に解釈してベストを尽くして区別したのでしょうが、多くは翻訳の便宜上の都合というものが大きく反映されているということらしいです。 その過程の中で、ルカ 20:30 の 「次男も」 のような節が出てくることになります。しかし、
Katsumi Sunaga
4月30日読了時間: 3分
私たちの信仰を増してください!
質問:これに対するイエスの答えが例えなので分かりづらいです。 [ルカ 17:5-10] 「信仰があれば何でもできる」 というのではなく、「神に言われたこと」を疑わないで信じて実行するなら何でもできる。という事でしょうか? 答え: その通りです。 信仰とは、神のことばへの応答です。 このたとえで、イエスは信仰についていくつかの原則を教えておられるようです。 ① あなたがたはすでに十分な信仰を持っています。 「あなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、木を海に動かすこともできます」 というところから、信仰とは自分の訓練によって増やしたり、大きくしたり、伸びたりするようなものではない、また信仰は量や大きさなどで測るものではないと教えられています。 ② 信仰は、神のことばに対する 「忠誠心」 です。 ルカ17:9に 「あなたも、自分に命じられたことを行ったら、なすべきことをしただけですと言いなさい。」 とあるように、まことの信仰とは、神のことばに沿って行動する時に自然に力を発揮するものです。必要なのは信仰の量や大きさではなく、神のことばへの忠誠心・依存心
Katsumi Sunaga
4月23日読了時間: 3分
ずる賢い管理人と不正の富?
質問:ずる賢い管理人のたとえは何を教えているの? [ルカ 16:1-13] 聖書を読むのであれば、イエスの十字架の陰に宿るために読みたい思います。でも、ルカ16:1〜13を読むと、「こうしたらいい」「こうしないのがいい」という考えになってしまいます。ここはどのように読んだらいいですか?。 答え: イエスの十字架の赦しについて教えているたとえです。 この賢い管理人と不正の富のたとえも難解な箇所の一つです。 これは、前章の15章から続くたとえの一貫として書かれています。たとえが向けられた聴者はおもにパリサイ人たちでした。そして 「隣人に対してどのように愛と恵みと赦しをもって接するのか」 ということが中心のメッセージです。そのクライマックスとして、15章の終わりに、放蕩息子のたとえと兄 (パリサイ人) が登場します。 16章はその同じメッセージの続きとして書かれているので、同じ文脈と聴者とメッセージを保つことが重要になります。16章では 「弟子たちに対しても」 と追加されますが、基本的にはパリサイ人たちがおもな聴者です。 さらにここでは当時のユダヤ文化
Katsumi Sunaga
4月23日読了時間: 4分
必死に、何度も、しつこく求める?
質問:神様は必死に何度も求めないと聞いてくれないのですか? [ルカ 11:5-13] ここのたとえに出てくる神様は、なかなか願いごとを聞いてくれず、必死にしつこく祈らないと叶えてくれないように思えますが・・・。 答え:父なる神はそうではなく、まったく正反対です。 ここでイエスが言われた例え話は、理解しづらい箇所としてあげられるたとえの一つです。 一見するとイエスは、「友人に対して普通に求めても聞いてくれないが、しつこく頼んだら聞いてくれる」 と教えているように見えます。しかし、ここは 「しつこさ」 について教えているのではなく、「誰に」 頼んでいるのかということを教えようとしているのです。 ここでイエスが言いたいのは、「あなたの友人でさえ都合が悪い真夜中であっても結局は願い事を聞いてくれるだろう。であるならば、あなたの父ならどれほど簡単にあなたの願いをかなえてくれると思う?」 と伝えているのです。 このような理解しづらい文節は、それが書かれている文脈全体を見る必要があると思います。事実、11章2節では、「このように祈りなさい。私たちの父よ・・・」
Katsumi Sunaga
4月17日読了時間: 2分
なぜ3人だけ?
質問:ヤイロの娘を癒す時に、なぜイエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人しか一緒に入ることを許されなかったんですか? [ルカ8:51] 癒しのためだったら3人だけでなく、弟子12人全員で入ったほうが、12人みんなの信仰が集まって強くなるだろうにって思いました。 答え:イエスは信仰を大切にしたから、あえて3人にしたようです。 確かに人々が大勢が集まれば、信仰も集まって力が増すだろうと思いますよね。しかし、信仰は必ずしも単に集まった人数に比例しているわけではありません。集まった人たちに 「信仰があれば」 たしかに信仰は増し加わるでしょうが、集まった人々が 「不信仰の人々」 ならば、かえって不信仰が増し加わってしまいます。 実際ここで集まった町の人々は、死んだ娘をよみがえらせようとしているイエスを 「冷ややかにあざ笑っていた」 と書かれています。そこには大勢がいたものの、不信仰が増し加わっていたのです。これはカペナウムという町で起こったことですが、実際にルカ10章では、イエスがこの町の不信仰を責めているのを見ることができます。 死人をよみがえらせるという地
Katsumi Sunaga
4月17日読了時間: 2分
マタイとレビは同一人物?
質問:マタイとレビは同一人物ですか? もしそうならなぜ別の名前で書かれているのですか? [ルカ5:27] 福音書ではよくひとりの人が複数の名前で登場することがあります。混乱しますね。今回はそれについてひも解いてみましょう。 答え:はい、マタイとレビは同一人物です。 率直な答えを申し上げると、マタイとレビは同一人物だと思われます。 当時のイスラエルは、長い間にわたって多くの外国の統治下に置かれていたため、母言語であるヘブル語の他に、中東圏のアラム語、ヨーロッパ圏のギリシャ語、ラテン(ローマ)語が入り混じっていた多言語文化であったということが背景にあります。そのため、当時のユダヤ人は当たり前のように複数の名を持ち、それらを場所と機会によって使い分けていたという慣習があったのです。マタイは、ヘブル語では 「レビ」 という本名を持っていましたが、同時に 取税人としてローマ人と関わる身分においては 「マタイ」 という名を用いていたということでしょう。漁師シモンが、使徒としてはアラム語で岩を意味する 「ケファ」 と呼ばれ、新約聖書の中ではギリシャ語の 「ペテ
Katsumi Sunaga
4月8日読了時間: 2分
信仰という選択?
質問:救われるためには信仰によって神を選ぶ必要がある。それは不公平では? 人間は生まれつき罪人なのに、救われるためには信仰が必要となる...。それは不公平ではないですか? 罪人となると選んで生まれたわけではないのに、罪人として生まれた。それなら、義人となると選ばなくても、生まれつき義人にしてしまえばいいのでは...? イエスがアダムより強いのなら、そうできるのではないですか? 答え:罪の原点を見ると、私たちの「選択」こそ鍵なのです。 「選んだわけでもない」ということばから、「罪人は生まれるだけで罪人なのに、義人になるためには選択しなければならないのか」という不公平感を感じておられるのです。それについて、その理由を一緒に、ひもといてみましょう。 おっしゃる通り、じつは、この不公平についての答えが福音が伝えているポイントです。無条件で罪人であるということは、別のことばで言えば、「罪人となる以外に選択肢がなかった」という意味です。自分で選んだわけでもないのに罪人・・・すなわち 「別の選択肢があれば、違う道を選んだだろうに・・・」ということでしょう。 神
Katsumi Sunaga
3月5日読了時間: 2分
系図は何のため?
質問:聖書の系図には意味があるのですか? 福音書にはなぜ人名を列挙する系図が書かれているのでしょうか? 何の目的があるのでしょうか? また、私たちはそこを詳しく読む必要があるのでしょうか。 答え: 救い主の「身分」を証明する、命のバトン 聖書を開いて、ずらりと並ぶ人名を目にすると、どうしても難しく感じてしまいますよね。 ですが、なぜ聖書がこれほどまでにページを割いて系図を記しているのか、その理由を 一緒に、ひもといてみましょう。 まず背景として知っておきたいのは、ユダヤ人にとって系図は自分の出生を証明する、何よりも大切なものだったということです。自分がどの部族に属し、どの土地に住み、その土地の相続権は誰にあり、またどのような社会的地位にあるのか。それらすべては系図に載っている先祖によって証明されました。 特に、王を輩出する「ユダ族」や、神殿で仕える祭司の「レビ族」にとっては死活問題です。系図による証明がなければ、王になることも、祭司として仕えることもできなかったからです。 系図を読み解くうえで最も重要なポイントは、「最初に出てくる人」と「最後に出
Katsumi Sunaga
2月19日読了時間: 3分
パリサイ人、サドカイ人って誰ですか?
質問:パリサイ人? サドカイ人? 福音書を読んでいると、パリサイ人やサドカイ人が出てきますが、この人達は、どこかの国の人ですか?それとも何かの職業のことでしょうか? 答え: 人種ではなく、ユダヤ教の中の「正反対な二大宗派」 福音書を読んでいるとしばしば登場するこの名前。日本語では「〜人」という呼ばれ方をしますが、実はペリシテ人のような人種(民族)のことではありません。これは当時のユダヤ教にあった「宗派」を指しており、現代の私たちには 「パリサイ派」「サドカイ派」 と呼ぶ方が理解しやすいかもしれませんね。どちらもBC150年あたりから登場し、ギリシャ帝国からローマ帝国へ移行していく中で、イスラエルに王が不在であった時期に国の主導権を握ったグループです。 聖書の世界をより深く知るために、一緒にその本質をひも解いていきましょう。 まず「パリサイ派」についてですが、これは「分離」を意味する「パリシー」という言葉が語源となっています。 その名の通り、聖書のことばを文字通り厳格に守り、世俗的な汚れから自分たちを切り離して生きようとした人々で、「律法学者」とも
Katsumi Sunaga
2月19日読了時間: 3分
「義」の正体とは?
質問:「義」って難しい 「義」という言葉は普段の生活では使うことがないと思います。また、オリジナルゴスペルの中で論理的に定義されていないようで、よく理解できません。 具体的にどういう意味なのでしょうか? 答え:「義人」とは「イエスの性質」 たしかにそうですよね。「義」という言葉は、日常生活ではなじみが薄く、どこか堅苦しく感じてしまうのも無理はありません。一緒にその本質をひも解いていきましょう。 聖書の中で、「義」ということばは、シンプルに「罪」ということばの反対(対照)として用いられています。 ですから、「義人」の反対は「罪人」となるわけです。 では、その中身は何なのか。 まず、「罪」とはすなわち「悪魔の性質」のことです。 アダムが(エデンの園で)実を食べたとき、単に「罪という概念」が入ったのではなく、いわば「悪魔が入ってきた」のです。ですから、聖書が「私たちは罪人である」というとき、それは「私たちは悪魔の性質を持つ人である」という、存在そのものの状態を指しています。 反対に、「義」とは、すなわち「イエスの性質・神の性質」のことです。..
Katsumi Sunaga
2月18日読了時間: 2分
無条件?条件付き?
質問:「キリストを信じるなら」という条件 オリジナルゴスペルでは「無条件」という言葉がよく出てきますが、「キリストを信じる」というのは、救いのための「条件」なのではないでしょうか。 また、そこには自分の「選択」も含まれているように感じます。 答え:差し出された恵みを、信仰で受け取る 聖書を読み進める中で直面する、非常に鋭く、かつ大切なポイントですね。 一緒にひも解いていきましょう。 結論からお伝えすると、はい。確かにその通りです。 皆さんに正しく理解しておいてもらいたいのですが、「救い」は無条件ではありません。 私たちの教会でも、神の「無条件の愛」は強調しますが、「無条件の救い」とは言わないように気をつけています。 なぜなら、神はご自分を信じない人でさえ無条件に愛されますが、信じようとしない人を無理やり救うことはできないからです。 かつてアダムが、神のことばを信じないという「不信仰」によって神との関係を切り離してしまいました。 ですから、その関係を戻すためにも「神を信じる信仰」が条件となります。 十字架の福音は、神の側から一方的に、無条件の恵
Katsumi Sunaga
2月18日読了時間: 2分
義人にする力と私たちの選択
質問:キリストの力が勝っているなら、信じなくても自動的に救われるのでは? アダムによって全ての人が罪人になる力よりも、キリストの「義人にする力」の方がはるかに勝っているはずです。 それならば、キリストを知らなくても、信じなくても、すべての人が自動的に救われるのではないでしょうか? 答え:「力の強さ」ではなく「誰を受け入れるか」という対話 神様の力の偉大さに目を留めた、非常に鋭い視点ですね。 一緒にひも解いていきましょう。 この問いへの答えは、救いが単なる「力の強さの勝負」ではないというところにあります。 実は、イエス様が十字架にかかる前から、いえ、天地創造の初めから、神様は常に悪魔に勝っておられます。義の力は、いつだって罪の力よりもはるかに優れているのです。 力の大小は問題ではありません。 本当の問題は、私たち人間が「悪を好む存在」になってしまったこと、そして「あえて神様から離れる道を選んでしまう存在」になったことにあります。 たとえ神様の義の力がどれほど強くても、一人ひとりがその力を自ら選び、受け入れ、自分のものとしなければ、その力はその人の人
Katsumi Sunaga
2月18日読了時間: 2分
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