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Ask the pastor
聖書と福音のQ&A
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3度も繰り返されるのは意味がある?
質問:イエスが祈りに行かれた時、ペテロたちが眠っているのを見て「目を覚ましていなさい」というのが三度ありました。この三というのは、ペテロがイエスを三度知らないということ、また、イエスがよみがえった後にペテロに「私を愛しているか」と三度聞くことに関係してますか? 聖書に「三度」同じことが繰り返されることが多いのはなぜですか? 答え: よく気づかれましたね。 聖書のユダヤ文化の中で、3度というのは特定の意味があります。せっかくですから、いくつか上げてみましょう。 神はサムエルの名を3回呼ばれた。 ダニエルは一日に3回神に祈った。 イエスは3回ゲッセマネの園で祈られた。 イエスは3回弟子たちに 「起きていなさい」 と言われた。 ペテロは3回イエスを否定した。 ピラトは3回イエスが無罪だと宣言した。 イエスが3回ペテロに 「愛しているか」と聞いた。 ペテロは3回、汚れた動物のふろしきの幻を見た。 パウロは3回「このトゲを取り除いてください」と祈った。 天使は3回「聖なるかな・聖なるかな・聖なるかな」と叫ぶ。 天使は3回「災いだ・災いだ・災いだ」 と叫ぶ。
Katsumi Sunaga
10月9日読了時間: 2分
神はあえて悪人を創造して用いられる?
質問:この2つの聖書箇所を見ると、創造主は人を悪き者や卑しい者に造ったと書かれていますが、そんな事があるのでしょうか。 愛である神の性質に反すると思いますし、元々悪しき者に造られたのなら、初めから救われるチャンスがないように思います。モーセに敵対したエジプトのファラオなどは神によって心を頑なにされたとあります。生まれる前から選ばれた我々クリスチャンに比べて、悪しき者達はハズレくじを引かされたような印象を受けます。 答え: 人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。 [ローマ 9:21 口語訳] 主は、すべてのものをご自分の目的のために造り、悪しき者さえ、災いの日のために造られた。[箴言 16:4 新改訳] これはとてもハイレベルなトピックですね!これを教えるためにはこのブログでは足りないくらいの情報量になるので、ここでは短く簡潔にまとめておきます。 まず第一のルールとして、神のご性質に関わるこのような箇所は、この一つの箇所だけで判断してはいけません。神の性質を
Katsumi Sunaga
10月9日読了時間: 6分
なぜ癒しのために唾を使った?
質問:イエスは、言葉や手を置くだけで癒やす場面もある中で、なぜこの箇所では唾を使ったのでしょうか? また、一度で完全に癒やさず、「何か見えますか」と本人に確認してから再び癒やしたことの意図についても知りたいです。 答え: イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれた。そして彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当てて、「何か見えますか」と聞かれた。すると、彼は見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。[マルコ 8:23-25] 確かにイエスは、いろいろな町で、いろいろな方法で、いろいろな病気を癒しました。イエスにとって、癒しのために特定の方法に頼る必要はなかったでしょう。しかし、さすがのイエスでも、人々を癒すことができない状況に置かれたことがあります。それは集まっていた人々が不信仰の心をもっていたときです。マルコの数章前にもどってみましょう。 イエスは彼らの不信仰のゆ
Katsumi Sunaga
10月8日読了時間: 3分
義と約束と忍耐の関係性を教えてください。
質問:約束のものを得るのにはやはり忍耐になってしまうのでしょうか? 神の義というものは、神から約束されるものだけに限定されており、人生にそのまま反映されるものではないということでしょうか? また、信仰による神の義と希望に基づいた私たちの忍耐の関係性について教えてください。 答え: 「世界の相続人となるという約束が、アブラハムにに与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によったからです。」 [ローマ4:13] 「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」 [ヘブル 10:36] 約束のものを得るために忍耐が必要であるというのは聖書に書かれている真理です。しかし、神があえて約束の実現を遅らせて、意図的に忍耐させているのか?というと、そうではありません。忍耐が必要なのは確かですが、その原因は人間側にあります。 約束があっても、それらの約束を知るために時間がかかり、忍耐がともなう。 知ったとしても、その神の約束を信じるために時間がかかり、忍耐がともなう。 信じたとしても、それが行動にあらわれるまでに時
Katsumi Sunaga
10月8日読了時間: 4分
聖書翻訳間で意味が異なっていますが、どう理解すればいいですか?
質問:箴言 10:22 を色々な訳で読んでみました。前半は理解できるのですが、後半部分をどう理解したら良いでしょうか。口語訳などはニュアンスが違うように感じています。パスターの見解をうかがいたいと思います。 答え: [新改訳] 主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。 [口語訳] 主の祝福は人を富ませる。主はこれに何の悲しみをも加えない。 この箇所のように聖書間で翻訳が異なる場合、いくつかの理由があります。 ① 用いている聖書の写本そのものが異なっている。 ヘブル語の聖書にもいくつかの写本があり、どの写本が採用されるかによって翻訳が変わる場合があります。 ② 写本のヘブライ語の語彙や文法があいまいである。 旧約聖書は古代ヘブライ語で書かれており、一つの文でも複数の理解と解釈がされる場合があり、さらに不明瞭な文脈・語彙などがあります。 ③ 翻訳者たちの神学や教理が翻訳に反映されてしまう。 聖書を翻訳するためには、ある程度の土台となるキリスト教の知識が必要ですが、その翻訳者の土台知識が翻訳にあらわれる場合があります。 ご指摘の後半
Katsumi Sunaga
10月7日読了時間: 3分
私たちにとっての「初歩の教え」「成熟」とは何ですか?
質問:ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。[ヘブル 6:1] 答え: ここでも大切になるのは、ヘブル書全体の文脈です。ヘブル書の文脈でもっとも大きなものは、これが「ユダヤ人の信者たち」に向けて書かれているということです。ヘブル書には、祭司制度、いけにえ、神殿、預言者などについて書かれており、明らかに旧約聖書に精通している人 (ユダヤ人) が読むことが前提となっています。ヘブル書は、律法による善悪の行いによって救われることに慣れ親しんだユダヤ人が、律法から自由にされてイエスを信じる信仰によってのみ救われるということに対して直面していた恐れと不安に対する答えとして書かれていることです。 さらに続く2節には、「初歩の教え」 についてこう書かれています。 「死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、 手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再び やり直したりしないようにしましょう。」 [ヘブル 6:2] 多くの教会は、この初歩の教えとは、「罪
Katsumi Sunaga
10月6日読了時間: 4分
救われた後のクリスチャンも救いを失うの?
質問:「また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、 そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めに立ち返ることは不可能である。」 [ヘブル 6:6] ここはかなり厳しいことが言われているようですが、バックスライドした人、救われたあとに神から離れていった人が救われるにはキリストをもう一度十字架につける事になるので、そのような人はもはや救われる余地はない、と言っているのでしょうか。しかし実際には後になって信仰が回復したという人もたくさんいます。それでももはや手遅れと言っているのでしょうか。 答え: これも新約聖書で解釈が難解だと思われている箇所の一つです。ヘブル書にはもう一つこれと似た箇所があるので、それも含めてお答えします。 「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、 罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを 焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」 [ヘブ
Katsumi Sunaga
10月6日読了時間: 4分
人は行いによって義と認められる?
質問:「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。」 とありますが、やっぱり人は行いによって義と認められるのでしょうか? [ヤコブ 2:24] 答え: ヤコブはこのように述べていますが、パウロが信仰による義について何と言っているのかも見てみましょう。 「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められるのです。」 (ローマ 3:28) 「人は律法を行いによってではなく、ただイエスを信じることによって義とされるのです。」 (ガラテヤ 2:16) ヤコブは義のために行いが必要だと言い、パウロは義のためには信仰だけでいいと言っているので、一見すると2つの教えが矛盾していると感じます。 事実、宗教改革を起こしたマルチン・ルターは、信仰による義を掲げるがため、「ヤコブ書は新約聖書から削除すべきだと言った」 というような逸話があるほどです。 パウロが伝えている義は、イエスを信じることによって 「内に受ける神の義」 という側面です。これは受身的で、神から一方的にもらうものです。そういう意味では、人間が
Katsumi Sunaga
9月9日読了時間: 3分
兄弟姉妹同士で結婚した?
質問:人類はアダムとエバから始まったと聖書に書いてありますが、その後どのように人類は増えていったのでしょうか?誰と結婚したのでしょうか? [創世記 3:20] 答え: 天地創造のプロセスや恐竜などと同様、人類の拡大と分布と発展についてはまだ多くの謎が残されています。アダムの子孫たちというのもその一つです。 ご質問について簡潔かつ単純に述べるなら、「兄弟姉妹同士で結婚した」 というのが答えになります。 聖書によれば、アダムとエバの最初の子はカインで、その次がアベルという記述になっていますが、聖書は男性しか名前をあげない、男性しか系図に載せないという文化の中で書かれたものなので、アダムとエバに女子が生まれても、聖書には記述されなかったという背景があります。すなわち、カインとアベルの間に、複数の女子が生まれ、姉妹たちがいたとしても、その名は明記されずにいました。 創世記 4章17節に、「カインはその妻を知った」 と出てきて、「この女は誰だ?」 と思いますが、これはカインの姉妹であったというのが通説です。このように、人類が地上に増えていく初期の過程では、
Katsumi Sunaga
8月19日読了時間: 2分
婚礼で礼服を着ない人?
質問:なぜ王様は大通りにいた人を招待したのにも関わらず、礼服を着てない人を外の暗闇に放り投げたのですか?礼服を持ってなくて当たり前ではないのですか? [マタイ 22:1-4] 答え: 今も昔も、正式に婚礼に招待された客は、その人の社会的なランクに合わせて参加するための衣装を自分で準備するというのは当然です。しかし、このたとえの中では、それらの正式に招かれた客は婚礼に来ようとしませんでした。そこで、「しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった」 とあります。婚礼に参加したのは、「路上からそのまま来た人たち」 でした。私たちは、「路上からそのまま来たんだったら礼服がなくて当然でしょう?なぜ追い出されるの?」と不思議になりますね。 しかし、当時のユダヤの婚礼では、婚礼に招かれたけれども、その衣装を準備することができない人たちに対しては、主催者側が衣装を準備してあげるという風習があったそうです。ですから、このたとえでも、路上から来た人々に対して、主催者側から礼服が提供されたに違いありません。
Katsumi Sunaga
8月5日読了時間: 3分
イエスのために家族と財産を捨てる?
質問:「私のために父、母、妻、子、あるいは財産を捨てた者は誰でも百倍の報いを受け〜」とありますが、家族を捨て、財産を捨てた者とはどんな人でしょうか? 百倍の報いとは何でしょうか? [マタイ19:29] 答え: 宗教の自由が認められている日本では、このような事象は想像しにくいですよね。しかし、昔だけでなく、今も、イエスを主として認めることを公言するために、両親に捨てられ、全財産を没収される人々がたくさんいます。 ユダヤ人は、今でも、「自分がイエスを信じた」 と言った瞬間、家族から勘当され、コミュニティから破門され、時に自分の子供や財産でさえ取り上げられることがあります。「イエスを信じたユダヤ人は本当のユダヤ人ではない」として、国籍も取り上げられる危険さえあります。これは、彼らが自ら進んで捨てたというよりは、「取り上げられた」 ということであり、それにもかかわらずイエスを捨てなかった、という意味で、イエスを捨てるよりは、家族を 「捨てた」 という表現がされているのです。 私も個人的に、あるアラブ人がイエスを信じた結果、父親から暗殺者を雇われ、今でも命
Katsumi Sunaga
8月5日読了時間: 3分
らくだが針の穴を通る?
質問:「らくだが針の穴を通る」とはどういう意味でしょうか。 実際に針の穴と言う門がある?または場所があったのですか? [マタイ19:23] 答え: 最近の文献の中には、「当時は本当に針の穴という門があった」 という説もありますが、それは後世に出てきた作り話のようなもので、実際に考古学的に立証されたものではありません。これはイエスがたとえとして用いられた表現だと思われます。 当時、ラクダは中東で最も大きい動物でした。それが最も小さい針の穴を通るというイメージを思い浮かばせたかったのだと思います。「それはむずかしい」 と言われましたが、実際はむずかしいどころか不可能です。金持ちだけでなく、人間が救われるのはそれほど不可能なことなのです。実際に、これを聞いた弟子たちは、「それでは、いったい誰が救われることができるのですか?」と聞きました。それに対してイエスは、「それは人にはできません。しかし、神にはできるのです。」と言われました。 これは金持ちについての描写なので、金持ちに当てて解釈するとすれば、ラクダが実際に小さな穴を通る姿をイメージしてみてください
Katsumi Sunaga
8月5日読了時間: 2分
なぜ金持ちの青年は全財産を求められた?
質問:なぜ金持ちの青年に全財産を売り払い貧しい人に分け与えるように言ったのでしょうか?全部売り払わなくても、貧しい人に豊かに施したり、宣教のために献げるようにするのではダメだったのでしょうか。[マタイ19:21] 答え: 確かに、全財産というのは難しい要求ですね。しかし、ここでイエスが伝えたいのは財産の「全額か、一部か」という問題ではありません。この青年がイエスという方に対して 「どれほどの価値を見出しているのか」 というものです。イエスという方が、自分の持っている金銭、所有物のすべてにまさって価値ある存在なのか否かということを聞かれたのです。 律法にかなった正しい行いをしている青年に対して、あなたの行いではなく、イエスという方がどれほど貴重なのか見せてほしいと願われたのです。恐らくこの青年は、イエスと金銭を天秤に置いた時、金銭の価値のほうが重かったのでしょう。悲しみながら帰って行ったということは、イエスに出会い、イエスを眼の前にしても、金銭を手放すのが惜しくなったということでしょう。たとえ貧しい人に金銭の一部を施しても、宣教のために献げても、そ
Katsumi Sunaga
8月5日読了時間: 2分
結婚についての教えを理解したいです。
質問: 結婚しないように生まれついた人、人から独身者にされた人、天国のために結婚しない人もいます。とありますがどんな人の事ですか。[マタイ19:11〜13] 答え: 当時のユダヤ文化は、旧約聖書による男性優位主義により、結婚関係において男性が非常に大きな力を持っていました。特に離婚については、パリサイ派などからの教えにより、「男性は好きな時に、好きな理由で、勝手に妻を離婚して手放すことができる」 という間違った教えを信じていました。イエスはそれを正し、結婚について、男性が好き勝手に振る舞うことはできないと教え、男性至上主義の価値観を責められました。それには弟子たちでさえ、「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです」と答えたほどです。それに対してイエスは、 1)結婚は神の定めであり、人が好き勝手に振る舞っていいものではない。 2)結婚しているか否かで、その人の価値を判断してはいけない。 3)結婚してもしないにしても、神のためにそれをしなさい。 と教えられているのです。この文脈の中でこれを理解すると、マタイ 19:11-13.
Katsumi Sunaga
8月5日読了時間: 2分
御国の奥義を知ることが許されていない人たち?
質問: イエスが言った「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません」とはどう言う意味ですか?福音の真理がわざと理解できないようにしていたと言うことですか? [マタイ 13:11] 答え: これについては、イエス本人が、13章13節でその理由を述べておられます。 「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです」 この説明からすると、あえてイエスの方から人々が理解できないようにしているのではなく、彼らのほうが 「見えていない、聞いていない、悟っていない」 ということになります。 イエスの本心は、ユダヤ人全国民がイエスを神として見て、イエスを主として受け入れ、イエスが救い主 (メシア) だと悟ることです。しかし、彼らのほうでそれを見ようとしない、聞こうとしない、悟ろうとしないというのが現実だったのです。イエスが彼らを理解させなかったのではなく、彼らがそれを選び、かえってイエスがそれに対応するしかなかったということです。 そのような聞く耳のない、
Katsumi Sunaga
8月5日読了時間: 3分
なぜ「わたしを愛しますか?」と3回も聞いた?
質問: ヨハネ 21:15-17で、イエスはペテロに 「あなたは私を愛しますか。」と3回質問し、ペテロは 「わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです。」と3回答えました。しかしギリシャ語では、イエス様の1、2回目の質問は「あなたは私をアガパオーしますか?」、そして3回目の質問は「あなたは私をフィレオーしますか?」と聞いており、異なる動詞を使っています。ペテロはそれに対し、3回とも「私はあなたをフィレオーします」と回答しています。 質問① どのようにこの箇所を解釈すべきでしょうか。 質問②ヨハネは何を強調したかったのでしょうか。 質問③イエス様が話したアラム語でもそのような意味合いの違いがあったのでしょうか。 答え: 質問に一つずつ答えさせていただきます。 質問① 解釈について 確かにこの箇所は、イエスが十字架にかかる前、ペテロがイエスを3回にわたって否定したので、復活された後、イエスはペテロの信仰を完全に回復するために、イエスを愛していることを3回確認されたというものです。 しかしこれは、イエスがそれを知りたいと願っていたのではなく、ペテ
Katsumi Sunaga
8月5日読了時間: 4分
キリストの苦しみの欠けたところ?
質問: パウロが言った、 「キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」 とはどういう意味ですか? [コロサイ 1:24] 確かに、私たちはいつも、「イエスが完全に私たちの罪を背負われた」 と聞いているので、なぜ欠けているのか、そしてパウロといえど人間がそれを満たすとはどういうことかと疑問に思ってしまいます。 これは、イエスの十字架の苦しみについて語っているのではありません。十字架の苦しみはイエスだけが背負い、それを欠けるところなく満たしてくださいました。 ここでパウロが言っている 「イエスの苦しみの欠けたところ」 とは、イエスの十字架の苦しみのことではなく、イエスが 「福音を宣教することについての苦しみ」 のことです。 イエスは公生涯を3年半しか過ごすことがなく、福音をイスラエル全土、さらに世界全国に宣べ伝えることについては、まだ 「欠けたところ」 があったのです。パウロは、イエスがすることができなかった全世界・全人類への福音宣教の労苦が足りなかったところについて、その部分を満たしているのだと宣べたのです。 さらに、「苦しみを満たす」
Katsumi Sunaga
7月8日読了時間: 3分
心を開けばイエスを知れるなら、みんなの心を開いてしまえばいいんじゃないですか?
質問: 「主がリディアという女性の心を開いた」 と書いてありますが、だったら主は全世界の人の心を開いて福音を広めることはできないのですか? [使徒 16:14] 答え: それはそれぞれの人の心の状態に左右されます。 確かにそう思いますよね。 でも神様は、人々の心を無理矢理こじ開けて、欲しくもないものを強制的に与えるお方ではありません。いくら神様でも、人間の主権と自由意志を無視して、勝手に人の心をいじることはできません。 この箇所の理解で大切になるのは、リディアについて少し前に書かれている 「神を敬う女性であった」 という記述です。リディアは、パウロに会う前から、すでに神を敬っている女性であり、神について知りたいと願っていた女性であったということが大きな前提です。さらに、安息日に川沿いにある祈り場にまで行くほど忠実だったので、その敬虔さと忠実の結果として、川沿いでパウロに出会うことになるのです。 心を開くという原語は、「完全に開く」 とか 「理解力を与えた」 という意味で、すでに少しばかり知っていたことが、さらにもっと完全に理解できたということです
Katsumi Sunaga
5月29日読了時間: 3分


聖霊が福音宣教を禁じた?
質問:なんで聖霊はパウロたちがアジアやビティニアに福音を広めることを禁じたのですか? [使徒 16:6-7] 全世界に福音を伝えるのは神の御心だったのではないですか? 答え: パウロ以外にも福音を伝える使徒たちがいたからです。 このブログで前述「テオフィロ様って誰ですか?」したように 、使徒の働きはパウロが中心人物として書かれているので、福音を異邦人に伝えたのはパウロだけのような感覚に陥ることがあります。しかし実際は、十二使徒たちのほとんどがイスラエル以外の地域、国々に出て行って福音を伝えたという記録があります。 下の地図をご覧になると分かりますが、12使徒たちをはじめ、それに続く70人の弟子たち、さらには500人の復活の目撃者たち、それからペンテコステの日に加えられた 3,000人の弟子たちが、それぞれ福音を携えてさまざまな地域に遣わされたというのが現実です。特に12使徒たちによって、東はイラン、北はロシア、南はエジプト、さらに遠東インドまで福音が伝わったとされています。 このように神の視点から見ると、アジアやビテニア地方というアジア地方はすで
Katsumi Sunaga
5月29日読了時間: 3分
主はご自分を求める人に出会ってくれるものだと思っていましたが?
質問:サウロはキリストを求めるばかりか、逆に迫害している人物だったのに、なぜ神が明確に出会ってくれたのですか? [使徒 9:1-] そしてなぜ彼の人生が大きく作り変えられたのでしょうか? 答え: 神は人の心の奥底を読まれるお方です。 主は、ご自身を求める者に出会われるというのは確かです。ここで注目するのは、「主を求めるにもたくさんの方法と表現がある」 ということだと思います。 パウロは確かにクリスチャンを迫害していましたが、心の中では、本物の神を求め続けており、本物の神を熱心に追求するという心が、彼の 「迫害」 という方法で表現されたのだと思います。事実、ギリシャ語では、「強く追い求める」 という言葉と 「迫害」 は同じ言葉なのです。 そういう意味では、パウロは、クリスチャンを迫害していたものの、同時に 「主を求めている者」 でもあったのでしょう。神はパウロの心の中の 「本当の叫び」 に答えて、明確に出会ってくれたのだと思います。 彼の人生が大きく用いられたのは、彼が迫害のために使っていた激しい追求心をキリストに向けたからだと思います。激しい迫害
Katsumi Sunaga
5月29日読了時間: 3分
