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心を開けばイエスを知れるなら、みんなの心を開いてしまえばいいんじゃないですか?

執筆者の写真: Katsumi Sunaga
Katsumi Sunaga
5月29日
読了時間: 3分

質問: 「主がリディアという女性の心を開いた」 と書いてありますが、だったら主は全世界の人の心を開いて福音を広めることはできないのですか? [使徒 16:14]



答え: それはそれぞれの人の心の状態に左右されます。


確かにそう思いますよね。


でも神様は、人々の心を無理矢理こじ開けて、欲しくもないものを強制的に与えるお方ではありません。いくら神様でも、人間の主権と自由意志を無視して、勝手に人の心をいじることはできません。


この箇所の理解で大切になるのは、リディアについて少し前に書かれている 「神を敬う女性であった」 という記述です。リディアは、パウロに会う前から、すでに神を敬っている女性であり、神について知りたいと願っていた女性であったということが大きな前提です。さらに、安息日に川沿いにある祈り場にまで行くほど忠実だったので、その敬虔さと忠実の結果として、川沿いでパウロに出会うことになるのです。


心を開くという原語は、「完全に開く」 とか 「理解力を与えた」 という意味で、すでに少しばかり知っていたことが、さらにもっと完全に理解できたということです。「まったく興味もない、知りたくもないのに、自分の意思に反して心が開かれて信者になっちゃった・・・」 のではありません。そういう意味では、質問されたような、神が人類みんなの心を開いてしまえばいいのに・・・というのは当てはまらないことになります。逆に彼女が神を敬い、祈り場に行くという心と行動があったので、主は彼女の願いに沿って、彼女の願いに応じて、心を開くことができたのです。


もう一つ同じことばが使われている箇所があります。


それからイエスは、聖書を悟らせるために、彼らの心を開いて、ご自分のことを解き明かされた。[ルカ 24:45]


イエスが復活された後も、それを理解できずに悩んでいた弟子たちに対して、イエスが心を開かれました。ここも同じく、弟子たちが復活について、イエスについて知りたいと願っていて、理解したいと望んでいたから、イエスが心に理解力を与えることができたのです。


人類最高の福音伝道者であるイエスでさえ、ご自分の民族であるユダヤ人たちの心を操作することはできず、閉じられている心をムリヤリ開けることはできませんでした。かえって人々はさらに心をかたくなにして、イエスを殺してしまいました。


反対に、リディアや弟子たちのように少しでも興味があり、真理を知りたいと願っている人たちに対しては、主は彼らの願いに応じて、心を開き、理解力を与え、救いに導くことができるお方です。


私たちの働きの一つは、人々にムリヤリ福音を信じさせることではなく、私たちの人生、言葉、行動、態度を通して、彼らに興味を持ってもらう、知りたいと思ってもらうことかもしれませんね。

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