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信仰という選択?

執筆者の写真: Katsumi Sunaga
Katsumi Sunaga
3月5日
読了時間: 2分

質問:救われるためには信仰によって神を選ぶ必要がある。それは不公平では?

人間は生まれつき罪人なのに、救われるためには信仰が必要となる...。それは不公平ではないですか? 罪人となると選んで生まれたわけではないのに、罪人として生まれた。それなら、義人となると選ばなくても、生まれつき義人にしてしまえばいいのでは...? イエスがアダムより強いのなら、そうできるのではないですか?


答え:罪の原点を見ると、私たちの「選択」こそ鍵なのです。

「選んだわけでもない」ということばから、「罪人は生まれるだけで罪人なのに、義人になるためには選択しなければならないのか」という不公平感を感じておられるのです。それについて、その理由を一緒に、ひもといてみましょう。



おっしゃる通り、じつは、この不公平についての答えが福音が伝えているポイントです。無条件で罪人であるということは、別のことばで言えば、「罪人となる以外に選択肢がなかった」という意味です。自分で選んだわけでもないのに罪人・・・すなわち 「別の選択肢があれば、違う道を選んだだろうに・・・」ということでしょう。


神がすべての被造物に与えた特権は 「選択の自由 (自由意志)」 です。エデンの園で 「いのちの木」 と 「善悪の木」 があり、アダムもエバも選択権を行使して選びました。それ以降、すべての人類が罪の中に生まれ、人類は罪人となる以外の選択肢がありませんでした。それ以外の選択肢を失ったのです。


しかしイエスがこの世に来られ、いのちと義をもたらしました。ここで改めて、全人類の前にもう一度 選択肢が与えられたのです。人間は再び自分の意思で「いのちの木」を選ぶことができるという選択権が回復されたのです。神は、アダムが失ったものを取り戻してくださいました。


「人類は選択肢がなく罪人」 という不公平を、イエスの義といのちが提供されることによって公平の均衡を取り戻されたと理解すると、「信仰による選択」 は悪いことではなく、良いこと(福音)なのです。旧約聖書でも、神がイスラエル人に律法という善を与えたとき、選択権を与えられたというのを見ます。


申命記 30:19 私は今日、いのちと死、祝福とのろいを、あなたがたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。


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