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義人にする力と私たちの選択

執筆者の写真: Katsumi Sunaga
Katsumi Sunaga
2月18日
読了時間: 2分

質問:キリストの力が勝っているなら、信じなくても自動的に救われるのでは?

アダムによって全ての人が罪人になる力よりも、キリストの「義人にする力」の方がはるかに勝っているはずです。

それならば、キリストを知らなくても、信じなくても、すべての人が自動的に救われるのではないでしょうか?


答え:「力の強さ」ではなく「誰を受け入れるか」という対話

神様の力の偉大さに目を留めた、非常に鋭い視点ですね。

一緒にひも解いていきましょう。


この問いへの答えは、救いが単なる「力の強さの勝負」ではないというところにあります。

実は、イエス様が十字架にかかる前から、いえ、天地創造の初めから、神様は常に悪魔に勝っておられます。義の力は、いつだって罪の力よりもはるかに優れているのです。


力の大小は問題ではありません。


本当の問題は、私たち人間が「悪を好む存在」になってしまったこと、そして「あえて神様から離れる道を選んでしまう存在」になったことにあります。

たとえ神様の義の力がどれほど強くても、一人ひとりがその力を自ら選び、受け入れ、自分のものとしなければ、その力はその人の人生において働くことができません。 イエス様が十字架で死なれたとしても、もし私たちがそれを拒み、罪を好み、悪を選び続けるなら、私たちの内に「義の力」が働くことはできないのです。


なぜなら、神の義とは、キリストご本人のことだからです。

キリストというお方を受け入れずに、私たちが義とされることはあり得ません。

救いとは、「神様が勝手にやったことだから、私は無関心でも勝手に義にしておいてよ」というものではありません。 私たちがそれを認め、価値あるものとみなし、信じ、受け入れるという「受容」が求められるのです。


罪人を義人に作り変える神様のダイナミックな力は、それを信じて受け入れた人々の中でこそ、力強く働き始めます。

エペソ 1:19 私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができるように祈っています。


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