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Ask the pastor
聖書と福音のQ&A
イエスキリスト
イエスのために家族と財産を捨てる?
質問:「私のために父、母、妻、子、あるいは財産を捨てた者は誰でも百倍の報いを受け〜」とありますが、家族を捨て、財産を捨てた者とはどんな人でしょうか? 百倍の報いとは何でしょうか? [マタイ19:29] 答え: 宗教の自由が認められている日本では、このような事象は想像しにくいですよね。しかし、昔だけでなく、今も、イエスを主として認めることを公言するために、両親に捨てられ、全財産を没収される人々がたくさんいます。 ユダヤ人は、今でも、「自分がイエスを信じた」 と言った瞬間、家族から勘当され、コミュニティから破門され、時に自分の子供や財産でさえ取り上げられることがあります。「イエスを信じたユダヤ人は本当のユダヤ人ではない」として、国籍も取り上げられる危険さえあります。これは、彼らが自ら進んで捨てたというよりは、「取り上げられた」 ということであり、それにもかかわらずイエスを捨てなかった、という意味で、イエスを捨てるよりは、家族を 「捨てた」 という表現がされているのです。 私も個人的に、あるアラブ人がイエスを信じた結果、父親から暗殺者を雇われ、今でも命
Katsumi Sunaga
8月5日読了時間: 3分
なぜ金持ちの青年は全財産を求められた?
質問:なぜ金持ちの青年に全財産を売り払い貧しい人に分け与えるように言ったのでしょうか?全部売り払わなくても、貧しい人に豊かに施したり、宣教のために献げるようにするのではダメだったのでしょうか。[マタイ19:21] 答え: 確かに、全財産というのは難しい要求ですね。しかし、ここでイエスが伝えたいのは財産の「全額か、一部か」という問題ではありません。この青年がイエスという方に対して 「どれほどの価値を見出しているのか」 というものです。イエスという方が、自分の持っている金銭、所有物のすべてにまさって価値ある存在なのか否かということを聞かれたのです。 律法にかなった正しい行いをしている青年に対して、あなたの行いではなく、イエスという方がどれほど貴重なのか見せてほしいと願われたのです。恐らくこの青年は、イエスと金銭を天秤に置いた時、金銭の価値のほうが重かったのでしょう。悲しみながら帰って行ったということは、イエスに出会い、イエスを眼の前にしても、金銭を手放すのが惜しくなったということでしょう。たとえ貧しい人に金銭の一部を施しても、宣教のために献げても、そ
Katsumi Sunaga
8月5日読了時間: 2分
なぜ「わたしを愛しますか?」と3回も聞いた?
質問: ヨハネ 21:15-17で、イエスはペテロに 「あなたは私を愛しますか。」と3回質問し、ペテロは 「わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです。」と3回答えました。しかしギリシャ語では、イエス様の1、2回目の質問は「あなたは私をアガパオーしますか?」、そして3回目の質問は「あなたは私をフィレオーしますか?」と聞いており、異なる動詞を使っています。ペテロはそれに対し、3回とも「私はあなたをフィレオーします」と回答しています。 質問① どのようにこの箇所を解釈すべきでしょうか。 質問②ヨハネは何を強調したかったのでしょうか。 質問③イエス様が話したアラム語でもそのような意味合いの違いがあったのでしょうか。 答え: 質問に一つずつ答えさせていただきます。 質問① 解釈について 確かにこの箇所は、イエスが十字架にかかる前、ペテロがイエスを3回にわたって否定したので、復活された後、イエスはペテロの信仰を完全に回復するために、イエスを愛していることを3回確認されたというものです。 しかしこれは、イエスがそれを知りたいと願っていたのではなく、ペテ
Katsumi Sunaga
8月5日読了時間: 4分
ステパノは、なぜアブラハムからソロモンまでの物語を話したのですか?
質問:その物語と使徒 7:51〜53はどのように繋がっているのですか? [使徒 7:1-53] ステパノがしたイスラエルの歴史の口述と、彼のまとめの説教の関連性を教えてください。 答え: 歴史の昔から示されていたイエスのひな型と、ユダヤ人のかたくなな心の叱責です。 ステパノは、モーセの慣習を変えて神殿を壊そうとしているという訴えに対して答えています。ですから、その反論として、モーセについてと神殿についての弁証を展開することになります。 その中で、ステパノが強調しているのは、ユダヤ人たちは、神が立てて遣わした人々を常に迫害して拒絶してきたという歴史です。これを通してステパノは、ユダヤ人がついにはイエスという神が立てて遣わした救い主さえも拒絶して殺してしまったと責めているのです。さらにこの箇所では、イスラエルの歴史で神に選ばれて遣わされた人物とイエスを重ねて語ることによって、今でも同じ過ちを繰り返していると訴えています。 神に選ばれたアブラハムはこの地に入ったが、相続地は足の踏み場もないほどだった。すなわちアブラハムの子孫であるイエスもこの地に来たが
Katsumi Sunaga
5月28日読了時間: 3分
なぜ3人だけ?
質問:ヤイロの娘を癒す時に、なぜイエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人しか一緒に入ることを許されなかったんですか? [ルカ8:51] 癒しのためだったら3人だけでなく、弟子12人全員で入ったほうが、12人みんなの信仰が集まって強くなるだろうにって思いました。 答え:イエスは信仰を大切にしたから、あえて3人にしたようです。 確かに人々が大勢が集まれば、信仰も集まって力が増すだろうと思いますよね。しかし、信仰は必ずしも単に集まった人数に比例しているわけではありません。集まった人たちに 「信仰があれば」 たしかに信仰は増し加わるでしょうが、集まった人々が 「不信仰の人々」 ならば、かえって不信仰が増し加わってしまいます。 実際ここで集まった町の人々は、死んだ娘をよみがえらせようとしているイエスを 「冷ややかにあざ笑っていた」 と書かれています。そこには大勢がいたものの、不信仰が増し加わっていたのです。これはカペナウムという町で起こったことですが、実際にルカ10章では、イエスがこの町の不信仰を責めているのを見ることができます。 死人をよみがえらせるという地
Katsumi Sunaga
4月17日読了時間: 2分
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