ずる賢い管理人と不正の富?
- Katsumi Sunaga
- 4月23日
- 読了時間: 4分
質問:ずる賢い管理人のたとえは何を教えているの? [ルカ 16:1-13]
聖書を読むのであれば、イエスの十字架の陰に宿るために読みたい思います。でも、ルカ16:1〜13を読むと、「こうしたらいい」「こうしないのがいい」という考えになってしまいます。ここはどのように読んだらいいですか?。
答え: イエスの十字架の赦しについて教えているたとえです。
この賢い管理人と不正の富のたとえも難解な箇所の一つです。
これは、前章の15章から続くたとえの一貫として書かれています。たとえが向けられた聴者はおもにパリサイ人たちでした。そして 「隣人に対してどのように愛と恵みと赦しをもって接するのか」 ということが中心のメッセージです。そのクライマックスとして、15章の終わりに、放蕩息子のたとえと兄 (パリサイ人) が登場します。
16章はその同じメッセージの続きとして書かれているので、同じ文脈と聴者とメッセージを保つことが重要になります。16章では 「弟子たちに対しても」 と追加されますが、基本的にはパリサイ人たちがおもな聴者です。
さらにここでは当時のユダヤ文化背景の理解が必要になります。当時のエルサレム神殿では、罪を犯した数万人のイスラエル人が実際に動物のいけにえを購入して、それらをほふって、祭壇にくべて捧げるという膨大で複雑で長時間かかるプロセスを通る代わりに、罪に相当する動物を購入するための金銭を神殿に支払っていたという実態があったようです。それは罪をあがなうために捧げられた金銭として、罪の代金、汚れた金、すなわち 「不正の富」 という名で知られていたようです。
ここで困った管理人が債務者たちの負債を軽くするというずる賢い行為に出るのですが、これは隣人が負っている負債を赦してあげる、大目に見てあげるという行為であって、つまり人々の罪を赦してあげるという意味です。人々の罪の内容と量を査定して、そのためのいけにえを決めるのは律法学者・パリサイ人たちでしたから、彼らは人々が支払う 「不正の富」 の額を決めることができたのです。人々は、パリサイ人が自分たちの罪を大目に見てくれて、罪の負債を小さく見積もってくれたなら、結果的に支払う金額が少なくて済みます。このようにしてパリサイ人は、人々の罪を赦してあげることによって、「不正の富を用いて友だちを作る」 ことができるのです。それによって、彼がパリサイ人の職を失っても、人々が彼を仲間として迎えてくれるようになるということです。これはイエスが他の箇所でも教えた 「赦しの大切さ」 のたとえと同じです。
逆に言えば、パリサイ人が隣人の罪を大きく見積もり、より厳しい査定をするなら、「不正の富」 の金額も上がります。パリサイ人は、その差額の金銭を 「ピンハネ」 することができたかもしれません。取税人が必要以上に税を取り立てて私服を肥やしていたのと同様です。イエスは16:11で、「不正の富に忠実でなければ、まことの富を得られません」 と言われましたが、これは私利私欲のためでなく、聖書に忠実になって隣人を正しく査定しなければ、あなたも神からの正しい査定と赦しを得ることができないということになります。
そして最後に、金銭に貪欲なパリサイ人たちに向かって、「神と金に同時に仕えることはできません」 と言われ、神に仕えるために 「不正の富」 からの収入を手放すか、不正の富からの収入のために神を手放すかのどちらかになると教えられたのです。さらに16章の後半では、金持ちとラザロのたとえも出てきて、パリサイ人たちへの強い警告がなされています。
ちなみに、このたとえを 「弟子たちに対しても言われた」 とありますが、これは12弟子の中で金入れを預かっていた「管理人」であったイスカリオテのユダに対して語られたものだと思います。彼も金銭を愛し、イエスを売り飛ばし、彼が告白した通り、「無罪の人を売り渡して」 (マタイ 27:3) 「不正の富」 を手に入れました。無罪の人を売って銀貨30枚を得たなんて、何という 「ピンハネ」 でしょう!彼こそ、イエスを正しく査定して、「不正の富」 を免除してイエスという友を作ることができたのに・・・
このようにこのたとえは、行いによって救いを得るというよりは、赦しの大切さ、金銭よりも正義に忠実であること、神に信頼することなど、イエスの十字架について語っていると言えるのではないでしょうか。

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