義と約束と忍耐の関係性を教えてください。
質問:約束のものを得るのにはやはり忍耐になってしまうのでしょうか? 神の義というものは、神から約束されるものだけに限定されており、人生にそのまま反映されるものではないということでしょうか?
また、信仰による神の義と希望に基づいた私たちの忍耐の関係性について教えてください。
答え:
「世界の相続人となるという約束が、アブラハムにに与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によったからです。」 [ローマ4:13]
「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」 [ヘブル 10:36]
約束のものを得るために忍耐が必要であるというのは聖書に書かれている真理です。しかし、神があえて約束の実現を遅らせて、意図的に忍耐させているのか?というと、そうではありません。忍耐が必要なのは確かですが、その原因は人間側にあります。
約束があっても、それらの約束を知るために時間がかかり、忍耐がともなう。
知ったとしても、その神の約束を信じるために時間がかかり、忍耐がともなう。
信じたとしても、それが行動にあらわれるまでに時間がかかり、忍耐がともなう。
行動したとしても、目に見える形であらわれるために時間がかかり、忍耐がともなう。
聖書にはこうも書かれています。
「神の約束はことごとく、この方において『しかり』となりました。」 [第2コリント1:20]
イエスの十字架によって、神からの約束のすべては、不動で普遍の真理として成就されました。神の側ではすべては完了し、すべては備えられました。しかし 「それを受け止める人間側に準備ができていない」という場合が多いのです。私たちがそれを信じるために時間がかかり、目に見えるようになるまで時間がかかる場合があります。その過程のことを聖書は 「忍耐」 と呼んでいるのです。
神が約束されて、十字架によって完了したからといって、自動的に人間に届くのではありません。私たちの方から積極的にそれを捕らえて、手に入れようとする信仰も求められているのです。
イエスはこう言われました。
「今日まで、天の御国は、激しく求める者たちによって奪い取られています。」 [マタイ 11:12]
約束がどれだけあっても、神は欲しがっていない人に無理やり与えることはされません。人間の自由意志を無視して、強制的に飲み込ませることはされません。人が 「欲しい」 と思わなければ、その人は約束の実現を手に入れることはありません。神がケチで意地悪だからではなく、神が人間の自由意志と権威を尊重されるお方だからです。
希望というのは、神の約束はすでに完了し、私はそれを受け取ることができると確信することです。そして、約束が目に見える形であらわれるために前に手を伸ばして、積極的にそれを求め続ける姿勢のことです。
質問: また、信仰による神の義と希望に基づいた私たちの忍耐の関係性について教えてください。
神の義と希望の関係は、次のように考えることができます。
「私は神の義を受け入れたので、神の約束のすべてを受けることができると確約された。だからそれの実現を期待して積極的に求めていく。時間がかかっても望み続ける。」
「信じる」 というヘブライ語は、「アーメン」 という語源を持っています。すなわち神の約束を信じるとは、すべての約束に対して「アーメン」ということです。神があなたを義とされたと言うなら、あなたはそれに「アーメン」と言います。義のゆえにあなたは癒されたと言われたなら、あなたも素直に 「アーメン」 と言います。
自分が義とされていると信じれば信じるほど、約束を信じやすくなります。信じやすくなればなるほど、実現もしやすくなるのです。義と希望はこのようにつながっています。
あなたは神の約束のすべてに 「しかり、アーメン」 と言っていますか? そのまま信じて約束を相続する人になりましょう!

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