人は行いによって義と認められる?
質問:「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。」 とありますが、やっぱり人は行いによって義と認められるのでしょうか? [ヤコブ 2:24]
答え:
ヤコブはこのように述べていますが、パウロが信仰による義について何と言っているのかも見てみましょう。
「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められるのです。」 (ローマ 3:28)
「人は律法を行いによってではなく、ただイエスを信じることによって義とされるのです。」 (ガラテヤ 2:16)
ヤコブは義のために行いが必要だと言い、パウロは義のためには信仰だけでいいと言っているので、一見すると2つの教えが矛盾していると感じます。
事実、宗教改革を起こしたマルチン・ルターは、信仰による義を掲げるがため、「ヤコブ書は新約聖書から削除すべきだと言った」 というような逸話があるほどです。
パウロが伝えている義は、イエスを信じることによって 「内に受ける神の義」 という側面です。これは受身的で、神から一方的にもらうものです。そういう意味では、人間が律法を行うかどうかなどは一切関係がありませんし、また無意味です。義とは、イエスを信じるだけで無償で与えられるものなのです。
ヤコブが伝えている義は、イエスを信じたことによって 「内から出てくる神の義」 という側面です。同じ神の義でも、これは能動的で、活動的で、おのずと内から出てくるもの、また自ら進んで表現するものです。神の義が内にあるならば、それはあまりにも強く輝くので、必然的に内から外に現れてきます。ヤコブは、「人が神の義を受けているかどうかは、その人の行いを見れば分かる」 というのです。
「私はイエスを信じています」 と言っても、その人から出てくる行いが義ではなく、不正、争い、汚れ、偽りばかりならば、「この人は本当に義とされていない」 と判断されてもおかしくはありません。そういう意味では、人は行いによって義と認められるというのは正しいのです。
ではやはり私たちは、がんばって律法の行いをするべきでしょうか? いいえ、そうではありません。パウロが言うように、義の行いをしたからといって義人とされるのではありません。しかし信仰によって義人とされているなら、必ず義の行いが出てくるでしょう。
本当に信仰があるなら、義の行いは自ずとあらわれてきます。「信仰はあるが義の行いがない」 というなら、その人は、「本当は信じていない」 もしくは 「間違ったものを信じている」 ということになるのです。ヤコブが強調しているのは行いではなく、「信仰」 だということに気づいてください。
「行いが伴っていないなら、その信仰は死んだものです。」 (ヤコブ 2:17)
とあるように、信仰が死んでいることが問題なのです。ヤコブが取り扱っているのは、行いが少ない・足りないの問題ではありません。信仰がない、間違って信じている、信仰が死んでいることなのです。
すなわちヤコブが伝えたいのは、「義人となりたいなら義の行いをしなさい」 ではなく、「義の行いがないなら、あなたの信仰を見直しなさい」 ということなのです。
パウロの言っていることと、ヤコブの言っていることは、まったく矛盾しておらず、かえって一致したことがお分かりいただけたでしょうか。

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