私たちにとっての「初歩の教え」「成熟」とは何ですか?
質問:ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。[ヘブル 6:1]
答え:
ここでも大切になるのは、ヘブル書全体の文脈です。ヘブル書の文脈でもっとも大きなものは、これが「ユダヤ人の信者たち」に向けて書かれているということです。ヘブル書には、祭司制度、いけにえ、神殿、預言者などについて書かれており、明らかに旧約聖書に精通している人 (ユダヤ人) が読むことが前提となっています。ヘブル書は、律法による善悪の行いによって救われることに慣れ親しんだユダヤ人が、律法から自由にされてイエスを信じる信仰によってのみ救われるということに対して直面していた恐れと不安に対する答えとして書かれていることです。
さらに続く2節には、「初歩の教え」 についてこう書かれています。
「死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、
手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再び
やり直したりしないようにしましょう。」 [ヘブル 6:2]
多くの教会は、この初歩の教えとは、「罪を悔い改めること、イエスへの信仰告白、水のバプテスマ、よみがえり、永遠のさばき」 など、クリスチャンになるときに教えらえる入門的な教えのことだと理解しています。そして、「成熟」 とは、罪をやめて、律法を完全に守り、聖霊の賜物を用いて、大宣教命令を実行するクリスチャンになるというようなことだと考えています。
しかし文脈を理解しながら読むと、ここでのユダヤ人たちは、いまだに 「イエスが救い主であるのかどうか」 ということにすらつまずいており、神への信仰とイエスへの信仰の違いは何なのかとか、水のバプテスマとユダヤ教の洗いの儀式(ミクヴァ) はどう違うのかとか、動物に手を置いて罪を付与することとイエスの十字架が同じかどうかとか、死者はよみがえるのかどうかとか、死後の世界があり裁きがあるのかどうかとか、そのようなことを議論し、どっちがいいのか比較し、疑い続けていたという背景があるようです。
ユダヤの律法とイエスの十字架との正しい関連 (継続性または断絶性) を分かっておらず、律法とイエスの両方を行ったり来たりして、どっちつかずにいたのです。イエスを信じると言っておきながら、ユダヤ教の戒律や律法によって救われることに戻ることは、いつまでも旧約聖書の古い啓示 (初歩的な啓示) に頼っていることであり、それによって、いつまでのイエスという本体 (成熟) に近づくことができなくなっていたのです。
ですから、ここでいう初歩的な教えというのは、「ユダヤ教の律法に基づいた神との関係のむなしさ」 のことを言っています。そして成熟というのは、 「イエスを信じる信仰に基づいた神との関係のすばらしさ」 のことです。さらに新約聖書全体は、「イエスと同じ姿に変えられる」 ことを成熟と呼んでいます。
イエスが神であり、神の小羊であり、イエスに罪が着せられ、イエスの血によって洗われ清められたと理解し、信じて受け入れたなら、もうそのような初歩的な議論をしなくてもよくなっているはずなのに、いまだに、そのようなことを議論しているということは、イエスを信じ受け入れきっていないことの証拠であり、成熟へと向かっていないことになってしまうのです。
ヘブル書の著者は、別の箇所でこれと同じことを述べています。
「あなたがたは年数からすればもう教師になっていなければならないにもかかわらず、
神のことばの初歩をもう一度教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物
ではなく、乳を必要とするようになっています。 まだ乳ばかり飲んでいるような者は
みな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。」 [ヘブル 5:12]
オリジナル・ゴスペルを受ける前まで、私たちは彼らと同様に、イエスが救い主だと言っているにもかかわらず、自分の善悪に頼り、律法による終わらない罪悪感に苦しめられ、水のバプテスマを受けたのに永遠のさばきを恐れ、まさしく 「初歩的なクリスチャン」 でした。義の教えに通じていなかったので、律法の乳ばかりを飲んでいたのです。
私たちはいまやイエスを知り、信じて受け入れたのですから、イエスの肉という固い食物を食べて、信仰がさらに強められ、イエスと同じ姿になるという成熟へと向かおうではありませんか。

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