救われた後のクリスチャンも救いを失うの?
質問:「また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、 そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めに立ち返ることは不可能である。」 [ヘブル 6:6]
ここはかなり厳しいことが言われているようですが、バックスライドした人、救われたあとに神から離れていった人が救われるにはキリストをもう一度十字架につける事になるので、そのような人はもはや救われる余地はない、と言っているのでしょうか。しかし実際には後になって信仰が回復したという人もたくさんいます。それでももはや手遅れと言っているのでしょうか。
答え:
これも新約聖書で解釈が難解だと思われている箇所の一つです。ヘブル書にはもう一つこれと似た箇所があるので、それも含めてお答えします。
「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、
罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを
焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」 [ヘブル 10:26]
確かにこれらの箇所によって、「ちょっとしたバックスライドならいいけど、何度も意図的にひどい罪を犯して堕落した人は立ち返ることはできない」 という教えが生まれて、「クリスチャンは救われたとしても、言動によっては救いを失う可能性がある」 という教えの土台となっています。
ここだけを読むと、確かにそのように見受けられますが、ここでもやはり「ヘブル書全体の文脈」を理解したほうがいいと思います。ヘブル書の文脈でもっとも大きなものは、これが「ユダヤ人の信者たち」に向けて書かれているということです。ヘブル書には、祭司制度、いけにえ、神殿、預言者などについて書かれており、明らかに旧約聖書に精通している人 (ユダヤ人) が読むことが前提となっています。
ヘブル書は、律法による善悪の行いによって救われることに慣れ親しんだユダヤ人が、律法から自由にされてイエスを信じる信仰によってのみ救われるということに対して直面していた恐れと不安に対する答えとして書いていて、「ユダヤ人信者がイエスを捨ててもう一度律法主義に戻ろうとしていることへの警告」 として書かれていることです。
ですから、ヘブル書 6章や10章に書かれている 「堕落する」「罪を犯す」 ということばには文脈独特の意味があります。それは、 「イエスを信じることから離れて堕落する」 とか 「イエスを信じることをやめるという不信仰の罪」 のことを言っているのです。当時、同じくイエスを拒絶した人々としてパリサイ人たちがいます。彼らはイエスを十字架につけて恥辱を与えました。ですから今になってイエスを拒絶して離れるなら、それはイエスを十字架につけた人々の仲間になることを意味するのです。
私たちにとっての罪とは、「中毒性の罪をやめられない」 とか 「信仰を迷ってしまうバックスライド」とかを想像します。でもそれは程度の上下はあれ、まだ 「イエスを信じながらもやってしまうこと」 だったり、「イエスを知っているけど肉の弱さのためにやってしまうこと」 だと思います。しかしヘブル書では、それらの罪のことを言っているのではなく、さらに進んで 「イエスが救い主であること自体を意図的に手放すこと」「イエスを拒絶してしまう裏切りと背信の罪」のことを言っているのです。
自分を救ってくれるイエスご自身を手放し、離れ、堕落していくのですから、もう罪を赦すイエスといういけにえはありません。悔い改めさせてくれたイエスを捨てるのですから、もう悔い改めのチャンスはありません。そういう人はもう一度ただ律法の下にさらされて、律法が命じる裁きを恐れるしかなくなってしまうのです。
まとめると、このヘブル書の箇所は、「罪がやめられない・・・ イエスを信じているけど人生が変わりきれていない・・・信仰の成長が低迷している、それが何度もあり、かなり長期間続いている・・・だからあなたは救いを失う」 ということを言っているのではありません。意図的に自ら進んでイエスを捨てて、イエスとの契約を解消してしまう人のことを言っています。
しかし同時に、「じゃあ、バックスライドくらいは大丈夫か」 ではなく、その中でもイエスご自身を捨てるという決断に至るなら、それはこの聖句を深刻に受け止める必要があると思います。
「ヘブル書はユダヤ人に対して書かれたから異邦人の私には関係ない」 ではありません。律法に慣れ親しんでいた当時のユダヤ人たちは、それ相応の恐れと不安があったことでしょう。しかし今の異邦人クリスチャンも同じく、律法の善悪に頼ることと罪と世のおいしい誘惑は自分の肉に染み込んでいて、ともすればそちらを選んで救い主イエスご自身を手放してしまう可能性があるのです。
ユダヤ人でさえもこのような厳しい結末を迎えてしまうなら、異邦人の私たちはなおさら気を引き締めてイエスとの契約と歩みを確固たるものにしようではありませんか。

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