神はあえて悪人を創造して用いられる?
質問:この2つの聖書箇所を見ると、創造主は人を悪き者や卑しい者に造ったと書かれていますが、そんな事があるのでしょうか。
愛である神の性質に反すると思いますし、元々悪しき者に造られたのなら、初めから救われるチャンスがないように思います。モーセに敵対したエジプトのファラオなどは神によって心を頑なにされたとあります。生まれる前から選ばれた我々クリスチャンに比べて、悪しき者達はハズレくじを引かされたような印象を受けます。
答え:
人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。 [ローマ 9:21 口語訳]
主は、すべてのものをご自分の目的のために造り、悪しき者さえ、災いの日のために造られた。[箴言 16:4 新改訳]
これはとてもハイレベルなトピックですね!これを教えるためにはこのブログでは足りないくらいの情報量になるので、ここでは短く簡潔にまとめておきます。
まず第一のルールとして、神のご性質に関わるこのような箇所は、この一つの箇所だけで判断してはいけません。神の性質を述べている他の聖句にも頼るようにしましょう。
第二のルールとして、書かれた文脈を見て、文脈の境界線の中で解釈するようにしましょう。この節が書かれたローマ書(特に9章・10章・11章)は、教会におけるユダヤ人と異邦人の和合と一致を生み出すことであって、特に9章はユダヤ人の民族的プライドを叱責しているという文脈です。この1節を理解するためには、9章から11章の全体文脈を理解するという努力が必要になります。
結論から完結にまとめると、この節は、「神が人間を創造するときに、悪者として創造される。だから人間には選択の余地はない」 という意味ではありません。これは神のご性質の他の部分と合致せずに矛盾してしまいます。
これはパウロがユダヤ人の救いについて述べている箇所ですので、人間の行いや努力によって救われるのではないことが強調されています。パウロは伝えたいメッセージはこうです。
➜ イスラエルの血族に属していても、恵みを受け取らないなら神の民イスラエルにはなれない。
➜ イスラエルの血族に属さない異邦人も、恵みを受け取るなら神の民イスラエルになれる。
救いは一方的な神の恵みと選びによる。
異邦人だからダメとか、ユダヤ人だから優れているなんてない。
イスラエルから出たからと言って、皆がまことのイスラエルではない。
アブラハムの子供だからと言って、皆がアブラハムの子孫ではない。(イシマエルとイサク)
事実、エサウとヤコブは双子だったが、行いに関係なくヤコブの方が選ばれた。
あなたから質問があった節は、この文脈の上で書かれています。
あなたは 「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。誰が神の意図に
逆らえるのですか。」 と言うかもしれません。しかし、人よ。神に言い返すとは
いったい何者ですか。造られた者が造った者に 「どうして私をこのように造った
のか」 と言えるでしょうか。 [ローマ 9:19-20]
ここでは 「神に造られた者」 と翻訳されているので、「神に創造された、生まれつきそのように造られた」 と読んでしまいがちです。しかし、ここで使われているギリシャ語は、創造されたという (Creation) の語彙ではなく、「形作る・型どる」 という語彙で、新しく創造するのではなく、すでにある物質にしたがって形だけを作るとか、すでにある性質に沿って型を定めるという意味です。無から有を生み出したり、まったく異なったものを新たに作るというのではなく、パウロがたとえで使ったように、「すでにある土を、その性質に沿って土器という形にする」 という意味です。
すなわち、神は、人を悪者として創造するのではなく、その人が生まれもったすでにある悪い性質、かたくなさ、悔い改めない心に沿って、その人を建て上げていくということです。神は、人が下した決断にしたがって、その人の応答に沿って行動されます。イスラエルが捨てられ、異邦人が救われているのも、ユダヤ人の不信仰、不従順、かたくなな心のゆえであって、その責任は神ではなく、イスラエルにあると伝えているのです。
また 「神に造られた」 と訳された語彙は、「広げる」 とか 「公にする」 という意味もあります。すなわち、すでにあるものが広げられていくこと、すでに内側にあったものが公になっただけということなのです。巻物が広がっていく時に、すでに中に書かれていることが、公に見えてくるようになるというに過ぎないのです。神は、「巻物を広げる」 という行為はされるかもしれませんが、中に何があるのかというのは、それぞれの人が決めることです。
神が、ある人を悪者として創造されたのではなく、すでにその人の中にあった性質に沿って形を整え、その道に進ませたにすぎません。神がパロを反逆者になるように創造されたのではなく、パロの心がすでに頑固で、何をしても変わらず、反逆する人であったので、神はそれに合わせて、それに沿って、パロの人生を形作っていきました。「神によって造られた」 と言っても、そういう人になると決めたのはパロ自身だったのです。
この思考プロセスをまとめると、このような順序になるかもしれません。
神はつねにすべての人に恵みで働きかける。
人はそれに対して従順か反抗の応答をする。
神はその応答に沿ってその人を立てて用いる。
結果的にその人の人生は神によって形作られる。
しかし結果について神が責められるのではなく、応答した人の責任である。
「陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、
別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。」 (ローマ 9:21)
ここでも 「作る権利」 と訳された語彙は、創造 (Creation) の語彙ではなく、聖書の別の箇所では、「実行する、沿って振る舞う、進ませる、結果を出す」 などと訳されている語彙です。
この文脈で見えるのは、神が作るとはいうものの、創造主としてではなく、あくまで人間の自由意志・主権に沿って振る舞い、実行し、結果を出して、作り上げている、そして神には人に応答して作り上げるという権利はあるということです。
神は 「異邦人をあわれむ」 と言ったらあわれむ。その主権は神にある。
神の恵みとあわれみに、行いや努力は関係ない。
しかしユダヤ人たちはその頑固さと不従順のゆえに神のあわれみに応答しなかったので、神もそれに応答して振る舞い、結果的に今のイスラエルが形作られている。
だから 「神が私たちをこのように造ったのだからしょうがない」 という訴えはお門違いである。
あなたの決断と行動に応答して、神があなたを建て上げているに過ぎない。あなたの決断に応答するという権利は神にあって当然でしょう。
人が頑固な心ゆえに応答しないと分かっていても、滅んでいくと分かっていても、神は豊かなあわれみのゆえに、その人を裁かずに忍耐しておられる。
「ゆえに神には不正がありません。」 [ローマ 9:14]
パウロの頭の中には、このような理解と思考のつながりがあると思います。
このブログでは説明しきれていませんが、なんとなくでも掴んでくだされば幸いです。

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