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キリストの苦しみの欠けたところ?

執筆者の写真: Katsumi Sunaga
Katsumi Sunaga
7月8日
読了時間: 3分

更新日:7月26日

質問: パウロが言った、 「キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」 とはどういう意味ですか? [コロサイ 1:24]



確かに、私たちはいつも、「イエスが完全に私たちの罪を背負われた」 と聞いているので、なぜ欠けているのか、そしてパウロといえど人間がそれを満たすとはどういうことかと疑問に思ってしまいます。


これは、イエスの十字架の苦しみについて語っているのではありません。十字架の苦しみはイエスだけが背負い、それを欠けるところなく満たしてくださいました。


ここでパウロが言っている 「イエスの苦しみの欠けたところ」 とは、イエスの十字架の苦しみのことではなく、イエスが 「福音を宣教することについての苦しみ」 のことです。


イエスは公生涯を3年半しか過ごすことがなく、福音をイスラエル全土、さらに世界全国に宣べ伝えることについては、まだ 「欠けたところ」 があったのです。パウロは、イエスがすることができなかった全世界・全人類への福音宣教の労苦が足りなかったところについて、その部分を満たしているのだと宣べたのです。


さらに、「苦しみを満たす」 という表現ですが、これは使徒たちが持つ霊的な理解なのですが、聖なる完全な天の御国を、この汚れて堕落した地上にもたらすためには、多大な戦いと犠牲と労苦が伴うという考えです。


確かにイエスは御国を地上にもたらすために十字架で労苦し、戦い、犠牲を払いました。しかし、キリストのからだ (教会) を地上で建て上げ続け、拡大し続けるためには、さらに労苦が必要とされているのです。パウロは、イエスが地上で教会を建てることができなかったことについて、イエスが満たすことができなかった犠牲、戦い、必要とされている労苦の荷を自分が負っているのだと言っているのです。


その証拠に、前の23節でパウロは次のように言っています。

「この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」


これはパウロの苦しみに対する文句や吐露ではありません。これはパウロが、イエスと同じ働きに招かれ、同じ犠牲を払うことに召され、同じ労苦を味わうことが許されたことについての栄誉であり、光栄であり、健全なプライドのあらわれです。


私たちも、日本において福音を宣べ伝え、キリストのからだを建て上げようとするなら、犠牲、戦い、労苦が伴うことでしょう。しかし同時に、私たちもまた、イエスの欠けた苦しみ、パウロの労苦の欠けたところを満たすことになり、パウロが受けた栄誉、称賛、喜びをも共有することができるのです。


これからも一緒にこの日本において御国を建て上げていきましょう。

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