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次男も?

執筆者の写真: Katsumi Sunaga
Katsumi Sunaga
4月30日
読了時間: 3分

質問:ルカ 20:30 は、 「次男も」 だけの超短い節ですが、なぜそんな短い節があるのですか?  [ルカ 20:30]


こんな節になったのには何か深い意味があるのでしょうか? 真相を教えてください。


答え: あまり意味はありません。☺️


これを教える前にまず知っておく必要があるのは、オリジナル原語の聖書 (ヘブライ語の旧約聖書とギリシャ語の新約聖書) には、章と節などは存在せず、区切りのないシームレスな書物だったということです。章と節は、聖書が他国語へ翻訳されていく中で、作業の都合と便宜上の目的で付け足されたものです。まず1200年初頭、聖書をラテン語に翻訳する際に 「章」 が入れられ、また1500年後期に 「節」 が付け加えられました。


さらに、章と節の区切りの霊的な意味とかいうものもあまり知られておらず、当時の翻訳者が霊的に解釈してベストを尽くして区別したのでしょうが、多くは翻訳の便宜上の都合というものが大きく反映されているということらしいです。


その過程の中で、ルカ 20:30 の 「次男も」 のような節が出てくることになります。しかし、これにはもう一つの理由があります。


聖書翻訳について調べる中で常に耳にするのは、「写本」 ということばです。聖書といっても、BC 1500年にモーセが手書きしたヘブライ語聖書がそのまま残っているのではありません。それを後世の人たちが手書きで写した 「写本」 が残っているのです。新約聖書も同様に、12弟子たちやパウロが書いたオリジナルはもう存在せず、写本が残っているだけです。


コピー機がない時代に、すべてが手書きで、長い時代にわたって 「写本を写本していく」 という作業がある中で、写本の中には、「いくつかの相違点」 があるものも少なくありません。すなわち、今は聖書翻訳をする人々が 「どの写本を選ぶのか」 によって翻訳の内容も変わってしまうというのが現実なのです。


ここで本題に入りますが、ご指摘の ルカ20:30 も、この「写本の違い」 によるものです。事実、他のギリシャ語写本には 「二番目の男も彼女を妻に迎えたが、子供を残さずに亡くなった」 と書かれている写本もあり、それをもとに翻訳された聖書も存在しています。本来は一文そのままがあるべきなのでしょうが、くどく説明されている部分が省略されて、最後にまとめられたという写本手法です。写本の相違はあるものの、意味は変わらないので許容されているということでしょう。日本語でも、いくつかの翻訳を読んでみるとその違いが分かるので、いつか試してみてください。


こんな些細なことによく気が付きましたね。これからも注意深く聖書を読んでくださるとうれしいです。

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