婚礼で礼服を着ない人?
- Katsumi Sunaga
- 8月5日
- 読了時間: 3分
質問:なぜ王様は大通りにいた人を招待したのにも関わらず、礼服を着てない人を外の暗闇に放り投げたのですか?礼服を持ってなくて当たり前ではないのですか? [マタイ 22:1-4]
答え:
今も昔も、正式に婚礼に招待された客は、その人の社会的なランクに合わせて参加するための衣装を自分で準備するというのは当然です。しかし、このたとえの中では、それらの正式に招かれた客は婚礼に来ようとしませんでした。そこで、「しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった」 とあります。婚礼に参加したのは、「路上からそのまま来た人たち」 でした。私たちは、「路上からそのまま来たんだったら礼服がなくて当然でしょう?なぜ追い出されるの?」と不思議になりますね。
しかし、当時のユダヤの婚礼では、婚礼に招かれたけれども、その衣装を準備することができない人たちに対しては、主催者側が衣装を準備してあげるという風習があったそうです。ですから、このたとえでも、路上から来た人々に対して、主催者側から礼服が提供されたに違いありません。しかし、この客はなぜか礼服を着ないで座っていました。この人は、礼服がないから仕方なかったのではなく、明らかにあえて主催者側から提供された礼服を着ることを拒んだということになるのです。
このたとえの意味はこうです。
婚礼の主催者というのはイエスです。主催者イエスが用意する衣装というのは、「義の衣」 です。ですから、この人は、「イエスとの婚礼の日に、義の衣を着るのを拒んだ人」 という意味になるのです。ここでも、主催者がケチで厳しく心が狭いから追い出したのではなく、この人が自分の意志で、自分の決断で、義の衣を拒み、それを着なかったということが浮き彫りになります。
当時のユダヤ人たちの中では、王という高貴な方から、無償で婚礼に招待され、無償で礼服が提供されたにもかかわらず、あえてそれを拒んで、汚い服装のままで参加するというのは、この上ない失礼・無礼であり、「この人は追い出されて当然」 という共通理解がありました。
さらに、この人は、「なぜ礼服を着ないのですか」 という質問に対しても黙っていました。これは 「応答しない心」 すなわち 「悔い改めのない心」 のことを表しています。ここで、「申し訳ありません。今すぐ悔い改めて義の衣をいただきます」という応答もできたのでしょうが、この人は「黙っている」という選択をしました。ここでも、この人のかたくなな心、頑固な心、悔い改めないのが堅い決意であることを見ることができます。
このたとえによれば、私たちも路上から集められた人々です。王の婚礼という最高の出来事に、ありのままの姿で、無償で招かれ、無償で義の衣をいただいたものです。私たちとしては、この無礼な人のようにならずに、招きに感謝し、義の衣に感謝し、これを身にまとって (外側の行動にあらわして)、イエスとの婚礼を迎えようではありませんか。

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