聖書翻訳間で意味が異なっていますが、どう理解すればいいですか?
質問:箴言 10:22 を色々な訳で読んでみました。前半は理解できるのですが、後半部分をどう理解したら良いでしょうか。口語訳などはニュアンスが違うように感じています。パスターの見解をうかがいたいと思います。
答え:
[新改訳] 主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。
[口語訳] 主の祝福は人を富ませる。主はこれに何の悲しみをも加えない。
この箇所のように聖書間で翻訳が異なる場合、いくつかの理由があります。
① 用いている聖書の写本そのものが異なっている。
ヘブル語の聖書にもいくつかの写本があり、どの写本が採用されるかによって翻訳が変わる場合があります。
② 写本のヘブライ語の語彙や文法があいまいである。
旧約聖書は古代ヘブライ語で書かれており、一つの文でも複数の理解と解釈がされる場合があり、さらに不明瞭な文脈・語彙などがあります。
③ 翻訳者たちの神学や教理が翻訳に反映されてしまう。
聖書を翻訳するためには、ある程度の土台となるキリスト教の知識が必要ですが、その翻訳者の土台知識が翻訳にあらわれる場合があります。
ご指摘の後半部分は、新改訳では主語が 「人」 なのに、口語訳では主語が 「主」 になります。これは、原文の主語が 「彼」 となっていて、翻訳者はこの 「彼」 が 「人」 なのか 「主」 なのか選ばなくてはならないからです。
また新改訳は 「苦労」 なのに、口語訳は 「悲しみ」 と訳されています。これは一つのヘブル語がいくつもの訳を持っていて、これも翻訳者が選ばなければならないのです。このような場合は、「どちらの翻訳も正しく、時と場合によって使い分ける」 という大きな理解があるようです。
箴言10:22 の場合は ② に当てはまり、語彙や文法があいまいで、翻訳者によって理解が異なるというケースです。私も英語の聖書で6冊の別々の翻訳を読みましたが、50/50 の確率で両方の翻訳が見受けられました。世界でも一つに融合できていない翻訳箇所ということです。
さて、パスターの見解を伺いたいということで、克巳個人の解釈になりますが、このような場合、私はよく「合併訳」 を作ります。「人の労苦は何も加えない」と「主は悲しみを加えない」 を合わせて、両方の意味をもたせるというものです。次のような翻訳になると思います。
「人を富ませるのは、人の労苦でなく、主の祝福である。主は祝福とともに悲しみを与えるなんてことはなさらない。」
個人的に意訳しても、聖書の原本から逸脱しておらず、どちらの意味も採用しているので、安心して両方の翻訳のすばらしさを受け止めることができると思います。

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